ジャニーズとマイケル・ジャクソン、そしてSMAPをつなぐもの
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今からちょうど30年前の1987年9月12日。
あのマイケル・ジャクソンの世界ツアー「バッド・ワールド・ツアー」の初日が、ここ日本の後楽園球場で行われた。
その後、日本公演は10月12日の大阪球場での追加公演まで、4箇所で14公演が行われた。
さらに、翌年12月9日から26日まで完成したばかりの東京ドームで9公演が追加された。
これは、最初の日本ツアーの際、工事中の東京ドームを見たマイケル本人が、「ボクあそこで、またコンサートをやりたいなあ」と語ったことがきっかけとなり急遽決まったものだったという。
このマイケル・ジャクソンを日本に招聘したのが、当時日本テレビの社員であった白井荘也だった。その経緯が『マイケル・ジャクソン来日秘話』(白井荘也:著)に綴られている。
もちろんマイケル招聘には、日本テレビ以外にも数多くの会社が名乗りを上げ狙っていた。本来こうした外国人アーティストのコンサートは“呼び屋”などと呼ばれるプロモーターの仕事だ。だが、白井に交渉役のお鉢が回ってきた。それにはある伏線があった。
ザ・ドリフターズとジャニーズ
白井は60年代から80年代半ばまで、日本テレビ芸能局音楽班のディレクターとして様々な番組を制作した。
中でもエポックメイキングな番組が62年に始まった『ホイホイ・ミュージック・スクール』だ。
ここで起用されたのがまだ「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」と名乗っていたザ・ドリフターズだった。
番組はその後、日テレのお家芸ともなる素人オーディション番組。『スター誕生』まで連なるパイオニア的番組だった。
ドリフが担当したのは、その素人が歌うときの伴奏だった。
伴奏専門のドリフターズを「笑いのドリフターズ」に改造しよう。
そう決心したのは加藤英文(のちの茶)の存在だった。
のちに脱退する小野ヤスシがまだメンバーにいて、彼は彼なりに面白いのだが、ある日どうしても短いコメントが面白くならない。小野に代えて「誰かやってみたい人?」と声をかけると、それまで黙々とドラムをたたいていた加藤がホッペタを赤くして手をあげた。
「演らせてください」
その顔にキラッと光る目を見たのである。彼の代役は見事に的中、スタジオ中が大笑いになり、加藤は照れに照れて「加藤チャンですよ、ペッ!」とやった。これが加藤のデビューであり、「笑いのドリフターズ」の誕生につながったのである。
出典:白井荘也:著『マイケル・ジャクソン来日秘話』
この番組中、小野らが脱退し、いかりや長介、荒井注、加藤茶、仲本工事、高木ブーというメンバーになり、「笑い」を武器とするバンドに生まれ変わっていったのだ。
『ホイホイ・ミュージック・スクール』では、このドリフとともに、大きく成長したグループがある。
それがデビューしたばかりのジャニーズ(以下、混乱を避けるため「初代ジャニーズ」と表記する)だ。
その名の通り、ジャニーズ事務所を設立するきっかけになったアイドルグループである。
司会の木の実ナナのバックダンサーとして起用され、人気を高めていき、同じく白井が演出する『ジャニーズナインショー』や『ジャニーズセブンショー』にドリフとともにメインキャストに抜擢されトップアイドルへと成長していったのだ。
マイケル招聘の最大の目的
白井はこうした音楽バラエティを作っていく中で、まだ10代だったジミー・オズモンドと出会う。
これがマイケル招聘の伏線となるのだ。
実は、ジミーとマイケルは幼いときからの友人同士。日本で公演をやりたいと思っていたマイケルが、日本での経験豊富なジミーに信頼できる男はいないか相談したところ真っ先に名前が挙がったのが白井だったのだ。
日本テレビとマイケル側の交渉は数カ月にも及ぶ過酷なものだった。
そのときに白井が大きなモチベーションのひとつにしていたのが「日本のエンターテイメント界の質向上のため」という思いだった。
日本のエンターテイメントもけっして遅れていたわけではない。
むしろ勤勉な日本人は戦争に負けてもあの焼け野原から、いろいろな面で努力し立ち上がり、文化を築き上げていた。
音楽の世界でもひとつひとつアメリカの模倣から日本独特のオリジナルの世界を創りあげていた。
でもなにかが足りない。
出典:白井荘也:著『マイケル・ジャクソン来日秘話』
それには本物を見てもらうしかない、と。「音楽番組の演出畑を進んできたテレビ屋としての私のなかには、マイケルのショーをまずはプロのタレントたちに届けたいという目的があった」のだ。
実際に、観客席の前方の席は日本のスターたちで埋め尽くされていた。
とくにジャニーズ組はわが旧友ジャニー喜多川氏をはじめ、総勢200名がジッとステージを見ている。そのほかにも演歌歌手を始め、当時日本で活躍していた名のあるタレントの8割が集まっていたといっても過言ではない。(略)
「きっと明日からタレントの意識が変わるだろう、マイケルを観て発奮するだろう」
出典:白井荘也:著『マイケル・ジャクソン来日秘話』
『SMAPと、とあるファンの物語』(乗田綾子:著)によると、そんなマイケル・ジャクソンの日本公演を観た中には、まだ結成されたばかりだったSMAPのメンバーもいた。
88年に東京ドームで行われた日本再公演のときだ。
マイケルのステージを、SMAPと井ノ原はジャニー喜多川の用意したチケットで、しかも最前列で観ていたのである。
その距離は井ノ原によれば「汗がかかった」。
当時11歳だった香取もその日のことをハッキリと覚えている。
「88年に、日本に来てるんですライブで。それを最前列で観させてもらって」
「行って始まっただけで興奮して、こう……キャーキャー僕も言いながら見てたら、どこかマイケルが“僕を見てくれた”」
ちなみにこの時木村も、他のメンバーと違う形であるが、やはり東京ドームのアリーナ席で同じツアーのマイケル・ジャクソンを観ている。(略)
当時16歳の木村もやはりステージに立つマイケルの姿を鮮明に記憶している。
「出てきて、2分くらい動かないんですよ、ミラーのティアドロップのサングラスをかけて。“あれ? 人形じゃないよね?”っていうぐらい、ずっと動かないんですよ。音も無音なんですよ。え、嘘でしょ? って思ったらゆっくり、ミラーのティアドロップのサングラスを外すんです」
当時のそれぞれの胸の高鳴りを一言で表す、香取のこんな言葉がある。
「あぁ、こんなステージの上に俺も立ってみたい」
出典:乗田綾子:著『SMAPと、とあるファンの物語』
自分たちが舞台に立ち始めた直後に“本物”を観た衝撃の大きさは想像を絶するものだったはずだ。彼らのエンターテイメント観に絶大な影響を与えたに違いない。
その後、SMAPを筆頭にジャニーズアイドルのライブ演出が急激に洗練されていった。
まさに白井荘也の抱いた思いのとおり、マイケル・ジャクソンの日本公演に洗礼を受け、ジャニーズアイドルのみならず日本のエンターテイメントの質が一段上がっていった。そしてその申し子ともいえるのが白井が育てた初代ジャニーズの系譜に連なるSMAPだったのだ。