【京都市】下京区「平清盛」の終焉推定地(高倉天皇誕生地)と遭遇!
平氏繁栄の基礎をつくり、武家政権を樹立したことで知られる「平清盛」。大河ドラマなどでもよく出てくる人物です。
先日、平家ゆかりの「若一神社」を訪問したこともあり、平清盛の話をしながら京都駅の八条口界隈(崇仁(すうじん)市営住宅の一角)を街ブラしていると、突如遭遇!
「平清盛の終焉推定地」そして「高倉天皇誕生地」と書かれてあります!
閑静な住宅地に突如、寝静まった夜に嬉しい悲鳴をあげてしまいました。
ひぇ〜こんなところにひっそりと佇んでいたとは…
治承5年 閏(うるう)2月4日、熱病により平清盛公死去したことは、ドラマでもみました。『吾妻鏡』によると、平安時代末期、平清盛の側近として活躍した平盛国の「九条河原口」にあった邸宅跡(推定地)で亡くなったそうです。
しかし、中原師元の日記『師元朝臣記』に盛国邸は「八条河原口」にあった書かれていたため、ここに石碑が建てられました。
清盛の遺骸は『平家物語』によるところでは、六道珍皇寺付近の火葬場で荼毘にふされ、遺骨は摂津国経の島、『吾妻鏡』によれば山田の法華堂(神戸市垂水区西舞子付近)に納骨されたと伝えられています。
壇ノ浦の戦いで平家一門は滅ぼされてしまいますが、平家が権力を持って強くなった理由がここにありました。
憲仁親王(高倉天皇)が生まれたのは盛国の邸で、父は後白河上皇、生母の建春門院滋子は清盛の妻時子の異母姉妹にあたります。清盛は娘(建礼門院徳子)を高倉天皇に嫁がせ、徳子が安徳天皇を生むと天皇の外戚となり権力を掌中におさめたそうです。
夜中の街ブラでいきなりの嬉しい史実との遭遇!
京都の街は、いつまでも飽きることがないですね♪
「 此附近平清盛終焉推定地」の碑
京都市下京区屋形町7