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【先取り「鎌倉殿の13人」】源平合戦時に平氏一門を率いた平宗盛。無能で情けない男だったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
平清盛の死後、平氏は衰退著しく、都落ちすることになった。(写真:アフロ)

 来年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のキャストが次々と発表されている。平宗盛を演じるのは、小泉孝太郎さんだ。今回は、平宗盛がいかなる人物だったのか考えてみよう。

■平宗盛とは

 久安3年(1147)、平宗盛は清盛の3男として誕生した。兄の重盛とともに清盛を支え、昇進も早かった。治承3年(1179)に重盛が亡くなり、その2年後には父の清盛も亡くなった。こうして宗盛は、平氏一門を率いる立場になったのである。

 近年、宗盛を再評価する試みも行われているが、『平家物語』ではけちょんけちょんのボロカスに書かれている。重盛が優れた人物として評価される一方で、宗盛は傲慢かつ愚鈍な人物として描かれ、しかも思い上がりも甚だしいので、周囲から反感を買っていたという。しかし、臆病な人物だった。

 加えて、宗盛は大飯くらいで腹を壊し、儀式の際には2度落馬するなど、平氏一門を率いる人物としてふさわしくない大失態があったようだ(『玉葉』)。ここまで読めばおわかりのとおり、宗盛は平氏の棟梁にふさわしくなかったのだ。

■宗盛の最期

 寿永2年(1183)6月、宗盛は平氏一門を率いて都落ちした。その後も勢いを盛り返すことなく、翌年の一の谷の戦いでは、一門の有力者の多くが討ち死にした。そして、迎えたのが元暦2年(1185)3月の壇ノ浦の戦いである。

 平氏一門の勇猛な武将は源義経が率いる軍勢を相手に奮闘するが、「もはやこれまで」と次々に海に飛び込んだ。しかし、宗盛は死にきれなかったうえに、水連(水泳)が得意だったので、プカプカと泳ぎ回っていたという(『愚管抄』)。宗盛は、海に浮かんでいるところを義経の軍勢に捕らえられたのである。

 宗盛が生き延びたいと思った理由は、子の清宗のためだったという。宗盛は清宗のためなら、生き永らえて捕らわれの身となり、京都や鎌倉で生き恥や醜態を晒しても構わないと思ったらしい(『平家物語』)。

 壇ノ浦の戦いの直前、源頼朝は弟の範頼に宛てた書状で、宗盛が極めて臆病であること、自害などしないであろうことを書き送っている。実際、宗盛は鎌倉に連行されると、泣いてばかりで食事もとらず、ひたすら助命嘆願を願ったという。頼朝は「これが清盛の息子か」と呆れ果てたという。

 元暦2年(1185)6月、宗盛は子の清宗らとともに近江国篠原宿(滋賀県野洲市)で斬首された。これにより、平氏一門は完全に滅亡したのである。

 はたして小泉孝太郎は、この情けないとされる宗盛をどう演じるのだろうか。大いに期待したい。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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