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「SEX AND THE CITY」から20年:その偉大さを振り返る

猿渡由紀L.A.在住映画ジャーナリスト
「SEX AND THE CITY」の4人の女性たち(写真:ロイター/アフロ)

 コスモポリタンに、マノロ・ブラニク。胸につけた花のコサージュに、マグノリア・ベーカリーのカップケーキ。そう聞いて「懐かしい」と思うのも、当然。「SEX AND THE CITY」の第1シーズン最終回がアメリカで放映されたのは、1998年8月末のこと。全女性を魅了したドラマの誕生から、20年が経ったのだ。

 この番組が社会現象となり、テレビ界を変えるほどの影響力を持つなどと、その頃には誰も予測していなかった。放映開始前、サラ・ジェシカ・パーカーひとりが出た壁一面の広告がサンセット通りの背の高いビルに出ているのを見て、筆者自身も、興味と同じくらい、疑問も感じたものである。

 興味を持ったのは、クリエーターがダーレン・スターだったからだ。スターは「ビバリーヒルズ高校白書」で名を上げたテレビプロデューサーで、筆者は、そのスピンオフの「メルローズ・プレイス」の大ファンだった。さらにそのスピンオフである「Models, Inc」も、ニューヨークが舞台の「Central Park West」も、毎週、欠かさずに見たものである。

 しかし、「Models, Inc」は1シーズンで打ち切られ(1シーズン目の最終回は、誰かが撃たれた!というところで終わったのに、謎はわからないままとなった)、「Central Park West」においては、1シーズンめの途中で打ち切られてしまった。つまり、彼はやや落ち目になっていたのである。また、当時、テレビは圧倒的に映画より下だったため(まさに、この『SEX AND THE CITY』が、その構図を変えるのに大きく貢献することになるのだが)、映画にそこそこ出てきたものの大スターではなかったパーカーが主演するというのも、なんとなく中途半端に思えた。

 放映局がHBOというのも、奇妙だった。HBOは、劇場用映画をメジャーネットワークより先に放映するケーブルチャンネルで、ほかにはボクシング中継を扱うなど、むしろ男性視聴者が多く、スターが作るようなトレンディドラマとは遠い存在だったのだ。

 実は、キャンディス・ブシュネルによるコラム集のテレビ化には、メジャーネットワークのABCも積極的だった。しかし、スターは、たっぷりと自由を与えてもらえることに魅かれて、HBOを選んだという。彼は挽回をはかりたかったのだ。その賭けは、大成功。そして、最初はテレビへのレギュラー出演を躊躇したパーカーも、“人生最高の役”(本人の言葉)を獲得することになった。

トランプに留守番電話。時代はたしかに流れた

 6シーズン続いたこのドラマが惜しまれつつ終了したのは、2004年2月。今、あらためて見直してみると、時代の変化は明らかに見られる。

 たとえば、キャリー(パーカー)が携帯電話を持ち始めるのは第4シーズンの途中あたりからで、それまでは留守番電話にメッセージが吹き込まれるシーンが多数登場する。経営破綻してもう店がないThe Sharper Imageや、DVRの先駆者だったTivoが出てきたり、スマフォの前の時代に愛されたパーム・パイロットをミランダ(シンシア・ニクソン)が使っていたりもする。そして、トランプだ。ミスター・ビッグのことをキャリーに説明するにあたって、サマンサ(キム・キャトラル)は「ドナルド・トランプみたいだけど、もっと若くてハンサム」と言うし、後にはトランプが自分役でカメオ出演もする。トランプがハリウッドとメディアの敵になった今では、考えられないことだ。途中起こった9/11の悲劇の影も確実に感じられるし、トランスジェンダーが出てくる回では、そのこと自体が非常に新しかっただけに、今ならばしないであろう表現が使われたりもする。

 そんなふうに、いかにもあの頃だなと思わせる一方で、肝心の内容のほうは、まったく古くなっていない。キャリーが何を着るのか、4人がどこの店に行くのかといった部分がとりざたされがちだったが、この番組は、女性が直面していく数々のリアルな問題を、ユーモアを加えつつ、心に突き刺さる形で語る、普遍的で、永遠にタイムリーな作品なのである。

過激なセックストークの奥にある、究極にリアルなストーリー

 この番組が話題を集め、「TIME」誌の表紙を飾るまでになった頃から、筆者は知り合いの男性たちが、「全然現実的じゃない」と批判するのを、何度も耳にした。女たちが自分のセックス体験をあんなに赤裸々に友達に話しているはずはないというのだ。

 たしかに、いかに親しくても、女同士で、彼の精液の味がどうかいうことまで話すことは、普通、ないと思う。ほかにも、週に1本しかコラム記事を書いていないキャリーがなぜアッパーイーストサイドのアパートに住み、山のようにマノロやジミー・チュウの靴を持っているのかとか(それについては、アパートが家賃上昇規制の対象物件であること、買い物癖のせいでキャリーには貯金がほとんどないことなど、一応、説明がなされる)、キャリーが家の中ですら同じ服を二度着ることはないとか、多忙な弁護士であるミランダですら4人でのブランチや飲み会は欠かさないとか、ありえない部分は、たくさんある。キャリーが街中で窃盗に遭ったと聞いて駆けつけてきたミランダに、捜査にやってきた刑事が目をつけてデートすることになったり、サマンサが神父を誘惑しようとするのも、ちょっと極端だ。何より、あの4人はダイエットなどまるで意識せず、好きなものを食べ、がんがん酒を飲むのに(キャリーはタバコも吸う)、美しい肌とボディを保ち続けているのである。

 だが、そこがまた優れたところ。今作は、表面的な部分で女性のあこがれを刺激しつつ、その奥でリアルな問題を語るという、見事なコンビネーションを達成したのだ。

 4人のセックストークでは、それまで、女性たちが心の中では思っても、下品だろうと恐れて口に出すことのなかった数々のことが語られた。毎回のように4人の誰かが新しい男に出会ってセックスをするのは、それらのテーマを挙げるための手段である。シングルファーザーのキャラクターと出会わなければ子連れ男とつきあうことについて語れないし、大学生との一夜がなければ性体験の浅い若い子との状況は語れない。

あの友情もファンタジー、そして素敵な教訓

 そして、今作が触れるのはセックスだけではない。ついに白馬の王子さまと出会ったシャーロット(クリスティン・デイヴィス)が仕事を辞めて専業主婦になると決めた時、彼女は、最も親しい友人たちからですら、失望と、やや軽蔑が混じった目で見られることになる。彼女は不妊の問題にも直面するし、2番目の夫となるハリーと一緒に住み始めた時には、同居する上で誰もが強いられる妥協というものについて語られた。ミランダは、稼ぎのいい職業についているがために、お金のないバーテンダーのスティーブとうまくいかなくなり、「女は成功することによって恋愛で罰を受けるのだ」と不満をぶちまけ、キャリーの編集者(キャンディス・バーゲン)は、「同じ年齢の男は若い女ばかりを見るから、50代女性のお相手は減っていくばかり」と愚痴を言う。

 さらに、ミランダがスティーブとついに結婚した後には、彼の母に認知症の気配が出始め、介護の問題が出てくる。一方でサマンサは乳がんの診断を受け、キモセラピーの副作用で髪を失った。

 そんなふうに、6年をかけて語られていく中で、彼女らは、多くの女性が直面する数々の問題に直面していくのだ。それに応じて、作品のトーンもややシリアスになっていくが、確固として変わらないのは、女同士の友情の部分。彼女らは、時に仲間の誰かを怒らせたりするが、結局はちゃんと謝って、仲直りをする。あんなふうにずばずばと相手の悪いところを言うというのも、おそらく、普通ならば、ないだろう。それもまた、ファンタジー。同時に、教訓でもある。許すこと、友情を守り続けることは、あんなにも素敵なのだ。

「SEX AND THE CITY」の大ヒットを受けて、「Lipstick Jungle」「Cashmere Mafia」といった、やはりニューヨークのおしゃれな女性たちを描くドラマが生まれた。しかし、どちらも視聴率を稼げず、打ち切られている。前者はブシュネル、後者はスターと、「SEX AND THE CITY」の生みの親が関わっているのに、ダメだったのだ。あのマジックは、二度は起こらないのである。

 20年が経ち、それはさらにしっかりと証明されることになった。あの4人とはずいぶんご無沙汰という人は、この記念すべき機会に、ぜひ、もう一度、見直してみてほしい。それは、すばらしい再会になることだろう。すばらしすぎて、きっと、明日の夜も、そして明後日も、彼女らを訪ね続けてしまうはずである。

L.A.在住映画ジャーナリスト

神戸市出身。上智大学文学部新聞学科卒。女性誌編集者(映画担当)を経て渡米。L.A.をベースに、ハリウッドスター、映画監督のインタビュー記事や、撮影現場レポート記事、ハリウッド事情のコラムを、「ハーパース・バザー日本版」「週刊文春」「シュプール」「キネマ旬報」他の雑誌や新聞、Yahoo、東洋経済オンライン、文春オンライン、ぴあ、シネマトゥデイなどのウェブサイトに寄稿。米放送映画批評家協会(CCA)、米女性映画批評家サークル(WFCC)会員。映画と同じくらい、ヨガと猫を愛する。著書に「ウディ・アレン 追放」(文藝春秋社)。

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