【深掘り「鎌倉殿の13人」】鎌倉幕府の財政基盤を支えた知られざるシステムとは
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」はいったん休憩で、座談会となった。今回は鎌倉幕府の財政基盤を支えた関東御分国と関東御領について、詳しく掘り下げてみよう。
■関東御分国とは
元暦元年(1184)、源頼朝は朝廷から三河・駿河・武蔵の3ヵ国を与えられた。これが、関東御分国のはじまりである。文治元年(1185)になると、伊豆・相模・上総・信濃・越後・伊予の7ヵ国が加えられた。伊予以外は、いずれも東国内だった。
同年12月には、伊予に代えて下総が追加された。文治2年(1186)には、源義経を追討することを名目として、豊後が関東御分国に加えられたが、それは一時的な措置に過ぎなかった。
文治5年(1189)に至るまで、関東御分国は8ヵ国だった。ところが、奥州合戦で陸奥・出羽の荘園などを関東御領としたので、建久元年(1190)には4ヵ国に半減した。
■関東御領とは
関東御領は、将軍家の直轄領のことであり、将軍が本所・領家として支配した荘園、国衙領のことである。東国のかなりの部分が幕府の経済基盤として、関東御領となった。
関東御領の大半は、平家没官領(滅亡した平家一門の所領)、承久の乱後に後鳥羽上皇に味方した公家・武士から没収した所領である。後者に関しては、約3000ヵ箇所の規模を誇ったといわれている。
朝廷が関東御領を認めたのは、東国における荘園・公領の支配を行うことにより、年貢を確保するためだった。朝廷にもおこぼれがあった。それを実現するためには、頼朝の力を必要としたのである。
■まとめ
関東御領を管轄したのは将軍家政所であり、年貢・公事などの徴収を行った。また、御家人を預所などに任命することにより、それら荘園を管理させたのである。
のちに、北条氏が幕府の実権を掌握すると、関東御領は北条得宗家が支配することになった。こうして関東御分国と関東御領は、幕府財政を支え続けたのである。