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【深読み「鎌倉殿の13人」】藤原泰衡を討った河田次郎は、なぜ源頼朝に殺害されたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源頼朝は、主討ちには大変厳しかった。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の21回目では、藤原泰衡を討った河田次郎が源頼朝に殺害された。なぜ河田次郎が殺害されたのか、その理由を詳しく掘り下げてみよう。

■譜代の者が主を討つこと

 源氏や平家には、代々仕える譜代の武士がいた。譜代は、「譜第」とも書く。彼らは、御恩と奉公の関係で結ばれていた。それゆえ、源頼朝が挙兵すると、かつての譜代の者が参上したのである。

 両者は固い絆で結ばれていたので、譜代の者が主を討つことは許されることがなかった。

 平治2年(1160)1月、源義朝(頼朝の父)は、譜代の長田忠致によって討たれた。頼朝はこのことを許さず、のちに忠致に「美濃・尾張(身の終わり)を与える」と言うと、ただちに処刑した。

 忠致は斬首されたというが、一説によると、大きな板に忠致を寝かせ、釘を足に打ち付け、槍で爪を剥すなど、残酷な方法で殺害されたと伝わる。ただし、忠致の討たれた日に関しては、諸説あり定かではない。

■主討ちを許さなかった頼朝①

 頼朝は父を殺害した忠致のときと同じく、決して譜代の者による主討ちを許さなかった。

 寿永2年(1183)9月、頼朝は和田義茂(義盛の弟)に足利俊綱を討つよう命じた。俊綱が頼朝に敵対したからだ。義茂が軍勢を率いて下野に向かったところ、俊綱配下の桐生六郎と通じることになった。これが悲劇のはじまりだった。

 六郎は主の俊綱の首を持参することで、頼朝に忠節を尽くし、あわよくば御家人に加えてほしいと考えた。同年9月16日、六郎は梶原景時に俊綱の首を持参し、「御家人に加えてほしい」との頼朝への伝言を依頼した。

 同年9月18日、景時から六郎の伝言を聞いた頼朝は、「譜代の者が主を殺すことはけしからんことで、とても賞賛には値しない」と述べ、六郎を殺害するよう命じたのである。

■主討ちを許さなかった頼朝②

 文治5年(1189)、頼朝は奥州征伐を敢行し、藤原泰衡の軍勢を打ち破った。負けた泰衡は、譜代で贄柵(秋田県大館市)の河田次郎を頼って逃亡した。しかし、次郎は泰衡を裏切って殺害し、首を取った。

 次郎は頼朝のもとに出向き、泰衡の首をさしだした。泰衡の首は首実検後、柱に釘で打ち付けられて梟首された。この直後、次郎に悲惨な運命が待ち構えていた。

 次郎は恩賞をもらえると思ったかもしれないが、そうではなかった。頼朝は「次郎の手を借りずとも泰衡を討てた」と言うと、「泰衡の旧恩を忘れ、主を討つとは言語道断」と激怒し、次郎を斬罪に処したのである。

■まとめ

 頼朝は敵対する平家どころか、自分に歯向かう者は、御家人であっても容赦しなかった。とりわけ、譜代の者が主を殺すことは、絶対に許さなかったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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