天皇賞で侮れない上がり馬を担当する男が事前に両親に報告する理由とは?
騎手を断念するも馬の世界は諦めず
「こういう大きなレースに常に挑戦出来るようになりたいですね」
シドニー市内にあるレストランで彼がそう語ったのは2年前。2019年の4月の事だった。このほんの何日か前に、彼とは次のような会話をした。
「また、日本で」
「はい」
そんな言葉をかわし、握手をして別れたのだ。
しかし、そのほんの数時間後、再び連絡が入り、彼は言った。
「このままもう1週、シドニーに残る事になりました」
茨城県で小川洋平が生まれたのは1983年10月11日だから現在37歳。父・洋行、母・裕子の下、4歳上の姉と育てられた。
「小学生の頃にゲームで競馬を知りました。その後、初めてテレビ観戦したのがフサイチコンコルドの勝った日本ダービーでした」
これを境に騎手になりたいと考えるようになった。
「両親に相談したら反対されませんでした。それどころか『やりたいなら挑戦しては……』と尻を叩かれました」
中学卒業に合わせ、競馬学校を受験。
「不合格になったのですが、高校に1年通った後で再び受けました」
今度は合格。石橋脩や松岡正海らと同期で入学し、授業を受けた。
「ただ、自分の考えが甘くてついて行けませんでした」
結果、中退した。それでも、競馬の世界で働きたい気持ちに変化はなく、福島の育成牧場に就職。そこで一つの出会いがあった。
「高田潤騎手のお兄さんの建吾さんという方がいて、この人に馬乗りなど、ホースマンとしての“いろは”は勿論、仕事以外の遊びまで色々と教えていただきました」
高田はひと足先にトレセン入り。牧場を去ったが、小川は彼の教育のお陰でショウナンカンプやメイショウバトラー、ホットシークレットといったオープン馬の調教を任されるまでになった。
クルーガーに教わった事
2005年7月には厩務員課程に合格し競馬学校に入学。卒業後の翌06年1月からは3ケ月の待機期間にオーストラリアへ飛んだ。
「ひとづてに森秀行調教師を紹介してもらいました。当時、森厩舎の馬が遠征しており、同行させてもらいました」
これが人生初の海外だった。
「現地の人達の馬への優しい接し方なども見せていただき、全てが勉強になりました」
帰国後のトレセン勤務は、高田を追いかけて栗東を希望。領家政蔵厩舎で持ち乗り調教助手になった。初めての関西圏での生活だったが「高田さんが面倒を見てくれたし、同期も仲が良かったので不便はなかった」と語る。
8年間、領家厩舎で汗を流した後、解散に伴い、高野友和厩舎に転厩した。そこで大きな牝馬を任された。
「デビューから3連勝して、牡馬相手の皐月賞でも1番人気に推されたファンディーナでした」
しかし、その皐月賞で7着に敗れたのを境に、その後は精彩を欠き、掲示板にも載れない競馬が続いた後、ターフを去った。
「大型で脚元も強くなかったので、目一杯に仕上げる事が出来ませんでした」
同じ頃、フィアーノロマーノも担当した。17年1月に新馬勝ちした同馬が、18年の暮れには準オープンを勝利してオープン入り。期待の膨らんだ19年、高野から思わぬ言葉をかけられた。
「『オーストラリアへ行こう』と言われました。厩舎のクルーガーがドンカスターマイルに挑戦する事になり、現地の経験がある僕が、一緒に行く事になりました」
自身2度目の海外はまたもオーストラリアになった。こうしてクルーガーと共にシドニーにいる頃、厩舎の仲間からLINEが入った。
「フィアーノロマーノがダービー卿CT(GⅢ)を勝ったという連絡でした。その場にいられなかったのは残念だけど、担当馬が重賞を勝てたのは純粋に嬉しかったし『クルーガーも頑張ってくれ!!』という気持ちになりました」
早速、赤道の向こうから両親に連絡を入れた。
「両親は茨城に住んでいるので、なかなか会えません。だけど、いつも応援してくれているので、テレビ中継があるようなレースに使う時はいつも報告しています」
パドックでの小川の勇姿を両親が画面越しに見たであろうドンカスターマイルでクルーガーは4着。勝てはしなかったものの、善戦した。ここで話は冒頭の部分に戻る。小川はこれで帰国の準備を進めたのだが、話は一転する。好走出来た事で、翌週のクイーンエリザベスS(GⅠ)にも急きょ参戦する事が決定。もう1週間、残る事になったのだ。
「結局、2着でしたけど、勝ったのがウィンクスだから良く頑張ってくれたと言って良いでしょう。クルーガーにはリスクがあっても諦めずに挑戦する事の大切さを教えてもらいました」
とぼけた顔をした馬との出合い
クルーガーが帰国してすぐのタイミングで、入厩した2歳馬を任された。
「この年のサンデーレーシングで1番の高馬だと聞きました。確かに格好良いけど、思ったよりとぼけた顔でディープインパクトっぽくない感じ。性格もおだやかで可愛らしい子でした」
これがディアスティマの第一印象だった。
ゲート試験に合格後、一旦放牧。秋に再入厩した時も同じ印象だった。
「跨ると良い背中をしているし、動く時もあるけど、反応が鈍い時もあって半信半疑。これは(北村)友一(騎手)君も同じ見解でした」
デビューの週、小川は再び渡豪したクルーガーについて日本を離れていた。
「またもLINEで勝った事を教えてもらいました。強い勝ち方だったので、半信半疑に思っていたのを申し訳なく思いました」
3戦目で早くも重賞に挑戦。京成杯(GⅢ)でいきなり3着に好走も、当時は惜敗が続いた。ダービーへの最後の望みを託した青葉賞では初めて18着に大敗した。
「瞬発力の差で惜敗を繰り返しました。青葉賞はレース中ガクッとなる場面があって後は鞍上が無理をしませんでした」
走りぶりを変えて連勝し天皇賞に挑戦
夏は放牧し、秋に戻ってくると9月27日に走った自己条件の1戦は前走比プラス12キロ。
「ひと回り成長していました。友一の助言でブリンカーを着け、ハミもリングバミにして操縦性が高くなり、いきなり強い競馬をしてくれました」
次の1戦では逃げるも捉まって2着。
「ここも切れ味の差で負けた感じでした」
この敗戦を機に、競馬ぶりが変わった。スローに落とす事なくケレン味なく逃げる形にすると連勝。それも後続に影すら踏ませないレースぶりを披露し、今週末はついにGⅠの天皇賞(春)に登録してきた。
「1週前には友一に乗ってもらい、中間も順調です。とぼけた表情なのは相変わらずだし、相手は強いけど、期待はしています」
近年の勝ち馬を見てもレインボーライン、フェノーメノらがこのレースで初GⅠ勝ち。それ以前も08年から12年までアドマイヤジュピタ、マイネルキッツ、ジャガーメイル、ヒルノダムールにビートブラックと5年連続で同様のケースが続いた。マイネルキッツ、ジャガーメイル、ビートブラックらは初GⅠどころか初重賞勝ちだった。そういう意味でディアスティマも軽視は禁物だ。
コロナの影響もあり「最後に両親に会ったのは3年くらい前」と語る小川は「今回もレース前には報せます」と言う。画面越しに朗報を届けられるよう願いたい。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)