さあ、夏! 高校野球・新天地の監督たち 1 帝京五(愛媛) 小林昭則
おおっ、これはかつての帝京高校と似たような感じだな……愛媛県大洲市・JR予讃線の新谷駅を降り、たどり着いた帝京第五高校の練習グラウンドに、既視感を覚えた。
校舎敷地内にある、いわゆる校庭で、レフトは70メートルほどだ。ライト方向は100メートルはあるが、センターからライトの後方ではサッカー部が練習しており、野球部の"領土"は50メートルくらいか。
全国優勝3回を誇る東京・帝京のグラウンドも、かつてはサッカー部と共用だった。レフトはともかく、セカンドの守備位置のすぐ後ろがもうサッカーコートで、「あっちからはサッカーボールが転がってくる、こっちは安全を確認しながらノックを打ち込む、そうやってお互いに領土を確保しようとしていた」(帝京・前田三夫監督)ほど。どちらも全国制覇歴のある強豪クラブにしては、つつましいものだった。
そういう環境で帝京は、1989年の夏、初めて甲子園で優勝するのだが、その前に2回、準優勝があった。80年のセンバツ、そして85年のセンバツである。今年度から帝京五の監督に就任した小林昭則は、そのときのエースだ。決勝では伊野商(高知)に敗れたものの広島商、東海大五(福岡)、そしてあの池田(徳島)と、難敵相手に3完封を記録する好投だった。
「けっこう力はあるな……離れてノックを見ていると、センターラインを中心にかなりまとまっているんです」
小林は、そう思ったという。帝京五の監督に内定し、こっそり視察に来たときのことだ。帝京から進んだ筑波大では通算25勝し、2年秋の神宮大会では、国立大初の全国優勝に貢献。89年にドラフト2位指名でロッテに入団し、96年までプロ生活を送った。
「大学ではサッカーの井原(正巳)、中山(雅史)、バレーの中垣内(祐一)らと同期。国立からドラフト入団ということで、当時は僕が一番有名でしたが、プロでは全然。知名度では彼らにすぐ抜かれましたね(笑)」
99年に母校の教員となり、02年から10年までは前田監督のもとでコーチを務めた。その後はバスケットボールの顧問を務めるなどしたが、今回の監督就任はいわば帝京グループの人事異動である。
50歳を前にしての初監督で「狙いに行く」
帝京五は、南予と呼ばれるこの地区では数少ない甲子園経験校で、69年のセンバツに出場している。だがそれ以後、夏の決勝で4度敗れるなど、甲子園にはあと一歩届いていない。つまり小林ではないがもともと、「けっこう力はある」のだ。だが、単身赴任した小林はまず、愕然とした。
「たとえば寮での食事ひとつとっても、各自バラバラに食べて、食べたら食器は出しっ放し。日常生活のマナーそのものがなっていませんでした。だから、力はあってもいざ試合になると、練習でできたことができない。週に2回寮に泊まり込み、日常に秩序を持たせることから取りかかりました」
むろん練習も、本家・帝京ばりの厳しさだ。それまで勝手気ままに振る舞っていた部員たちにとっては、
「もう無理や、と思うこともありました」(細見優己也主将)
という毎日である。それでも、小林監督の初陣だった春季大会は、ベスト8。準々決勝では優勝した川之江に敗れたが、それも延長13回タイブレークだから、確かに力はある。外野兼投手の細見は、左腕から安定した投球を見せるし、四番を打つ木本将吾はプロ注目で、粗削りながらその飛距離は途方もない。
小林自身、50歳を目前にして初めての監督になる。だが、
「帝京時代も、前田監督が日本代表の遠征などで不在のときは代理で指揮を執ったし、Bチームの試合も監督していましたから、戸惑いはありません」
それはそうだ、なにしろプロ野球という最高レベルを知っているのだから。
当初、強豪との練習試合では負けが込んでいた帝京五だが、「"オレはオマエらを信頼する"と言われ、必死でついていくしかない」(細見主将)日々を経て、いまでは互角に戦えるようになってきた。先日は、高知8強クラスの岡豊に連勝。岡豊を率いる山中直人監督は、85年のセンバツ決勝で小林が敗れた伊野商を指揮していた、その人である。
「何年で甲子園、とよく聞かれますが、今年の愛媛は力の差がない印象。監督には筑波の後輩も多くいますし、この夏から狙いに行きますよ」
と力が入る小林。もし甲子園に出て、母校・帝京と対戦することにでもなったら……面白いなあ。