英プレミアリーグに学ぶ国際化の功罪
息を吹き返した金満リーグ
世界中の人気を集めるサッカーの英イングランド・プレミアリーグ。思わぬ放映権料収入が転がり込んだ今季は各クラブとも補強が十分だったため、サポーターも久しぶりに白熱した試合を楽しめる。
筆者が贔屓にしているアーセナルはレアル・マドリーからエジル(ドイツ)が加入、ACミランからフラミニ(フランス代表)が復帰して、首位を走る。
居眠りをしてしまうような試合が多かった昨季とは大違い。今季は攻守の切り替えが速く、スリリングなゲーム展開なのだ。カネの切れ目が縁の切れ目とは良く言ったもので、金満リーグのプレミアは2008年の世界金融危機をきっかけに低迷が続いていた。
しかし、米国経済が力強く回復し、英国経済も底を打ったことから、プレミアも息を吹き返した。
プレミアと、スペインやドイツのリーグとの間には大きな違いがある。それは選手と資本の国際化である。
イングランド選手のプレー時間は3分の1以下に
国際スポーツデータ会社Optaがプレミアに所属する選手のプレー時間を国・地域別に調べたところ、今季、イングランドは32.26%で、2007/08シーズンの35.43%より下がっていた。
国・地域別のプレー時間の割合
今季 2007/08
イングランド32.26% イングランド35.43%
フランス8.10% アイルランド6.03%
スペイン6.27% フランス5.91%
アイルランド4.77% スペイン3.20%
オランダ4% スコットランド3.01%
ベルギー3.59% 米国2.89%
スコットランド3.27% オランダ2.66%
ウェールズ3.17% ウェールズ2.52%
ブラジル2.75% ブラジル2.37%
アルゼンチン2.09% 北アイルランド2.34%
イングランドの選手がプレーする時間が減った代わりに、フランス、スペイン、オランダなどの選手のプレー時間は増加。ちなみに日本選手は0人、0分の0%から2人、62分、0.05%に微増していた。
ワールドカップの覇者スペインや、ドイツのリーグでは自国選手のプレー時間はそれぞれ59%、50%と格段に長い。このため、プレミアは代表チームの強化に貢献していないという批判が渦巻いている。
2つの道
名古屋グランパスの監督だったアーセナルのベンゲル監督は英BBC放送に「リーグが選ぶ道は2つある。世界中の優秀な選手を集める一方で、世界レベルで通用する自国選手を育成する。もう1つは、自国選手の出場機会を守るため、世界の選手を締め出すことだ」と指摘している。
プレミアの魅力は、一直線にゴールを目指すイングランド伝統のスタイルーと世界中の才能が融合していることだ。
プレミアが市場開放ではなく保護主義に走ればロシアや中東のオイルマネー、米国資本は一気に引き上げ、低迷を極めた1980年のフットボールリーグ・ディビジョン1時代に逆戻りしかねない。
その頃のイングランドでは、スタジアムは老朽化し、フーリガンが暴れまくり、雑踏事故も起きた。プレミアはサッチャー改革と同じ道をとり、世界に先駆けてリーグを開放した。
プレミアの人気クラブ、マンチェスター・ユナイテッド、マンチェスター・シティ、チェルシー、リバプールのオーナーはいずれも外国資本である。
日本経済が競争力を取り戻すカギ
こうした英国の開放政策を、日本は長らく「ウィンブルドン現象」と揶揄して、経済の市場開放を拒んできた。その結果、日本企業は生き残ったが、国際競争力を失った。
安倍晋三首相は環太平洋経済連携協定(TPP)交渉に関して、「TPP交渉への参加は国家百年の計だ。年内妥結に向け日本が主導的な役割を果たす責務がある」と強調している。
日本経済が復活するためには、激しい国際競争に身を置く必要がある。自国産業を保護しようとすれば、その分野の国際競争力は著しく低下する。結局、日本は敗者となる。
その一方で、ベンゲル監督がいみじくも指摘しているように、世界レベルで通用する選手の育成も不可欠なのだ。マンUの前監督ファーガソン氏も若手育成に力を入れてきた。
サンダーランド戦に初先発し、いきなり2ゴールの鮮烈デビューを飾った18歳の新星ヤヌザイも16歳からマンU入りし、ユースチームで才能を磨いてきた。
国境を越える才能
ヤヌザイの両親はコソボ系アルバニア人で、ベルギーで生まれた。コソボは国際サッカー連盟(FIFA)加盟国ではないが、ヤヌザイはベルギー、アルバニアなど他の4カ国代表としてプレーできる権利を有している。
才能に国境の垣根はない。ヤヌザイのような才能をいち早く見抜いて自国に呼び寄せ、育成していくことも大切なのだ。グルーバル化の時代、こうした努力を怠れば市場は外国製品に席巻され、人材や資本は国外逃避するという憂き目を見る怖さがある。
たかがサッカーと侮るなかれ、TPP交渉を進める日本がプレミアから学ぶ教訓はいくらでもある。
(おわり)