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【九州三国志】密通が招いた戦乱の行方!獺野原の戦い

華盛頓Webライター
credit:pixabay

永禄2年(1559年)、人吉城において、一見平穏に見えた日常の裏側で、小さな火種が大きな争乱へと発展した事件がありました

その発端は、人吉城の城詰め衆である児玉弥太郎、早田平八郎、深水新左衛門の三人が、人吉奉行丸目頼美の母に仕える侍女たちと密通していたことに端を発します。

密通という言葉が持つ背徳的な響きは、この時代にも人々の心をかき乱したことでしょう。

この三人は侍女たちを奪おうと画策し、さらには人吉奉行の丸目頼美と東長兄を争わせることで隙を作り、その計画を実行に移すことを目論みました。

計略を授けたのは宗慶寺の僧・智勝。

策略家のようなこの僧が示した道筋に従い、三人は互いに讒言を用いて頼美と長兄の間に不信感を植え付けました。

事態の深刻さに気づいた当主相良義陽の母である内城君は、湯前城主の東直政に仲裁を頼みましたが、状況は悪化の一途をたどります。

頼美と直政が内城君を奉じて乱を起こすのではないかとの不安から、長兄は先手を打つ決断をしたのです。

そして、義陽と内城君を赤池城に避難させるとともに、頼美の屋敷へ火矢を放ちました。

頼美はやむなく湯前城へ逃れ、直政とともに籠城することとなります。

籠城中の湯前城では兵糧が不足し、米を運び入れる試みも阻まれます。

一方、人吉城側は多良木城への攻撃を準備し、その結果、直政側は多良木城を攻めるも落城には至らず、さらに追い詰められる状況へ。

やがて獺野原において両軍が激突することとなりました。

戦いは熾烈を極めましたが、最終的に人吉城側が勝利を収め、直政、頼美をはじめとする多くの兵士が命を落とします。

この戦乱の原因となった侍女たちもまた自害し、宗慶寺は乱への関与により急速に衰退する結果となりました。

この戦乱を通じて、相良義陽の統治能力が高まったと一般的には評価されていますが、その代償として失われた命や信頼の大きさは計り知れません。

なお、逃れた頼美はその後日向国にて生涯を終え、乱の首謀者たちは翌年に捕らえられて処刑されました

この出来事は、一人の密通から始まった些細な出来事が、いかにして多くの人々を巻き込む大きな争乱へと発展したかを物語っています。

そして、それはまた、人間の欲望と策略が生む悲劇の一端を如実に示しているのです。

Webライター

華盛頓です。以前の大学では経済史と経済学史を学んでおり、現在は別の大学で考古学と西洋史を学んでいます。面白くてわかりやすい記事を執筆していきます。

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