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【九州三国志】幼主の阿蘇氏、激動の時代に滅びゆく!島津の猛攻に抗いし者たちの物語

華盛頓Webライター
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肥後の大宮司として独立を維持してきた阿蘇氏ですが、天正6年(1578年)の耳川の戦いで大友氏が島津氏に大敗すると、肥後にも島津の影響力が拡大します

阿蘇氏は当初、大友氏に代わり台頭した龍造寺氏に従属して島津と対抗したものの、天正11年(1583年)、当主・惟将が没し、その後継者も相次いで亡くなる不運に見舞われたのです。

惟将の弟・惟種は相続わずか1か月で病死し、跡を継いだのはわずか2歳の惟光でした。

幼主を補佐する甲斐親直が孤立する阿蘇氏を支えたものの、その親直も天正12年(1584年)に死去すると、阿蘇氏の運命は風前の灯火となります。

島津氏は勢いそのままに侵攻を開始し、新納忠元らの指揮で阿蘇氏の居城・岩尾城を落としました。

幼い惟光は家臣に伴われて脱出し、阿蘇氏は実質的に滅亡したのです。

しかし、その旧臣たちは島津の侵攻に必死の抵抗を続けます。

長野惟久は南郷城で玉砕し、高森惟直も城外決戦で討ち死にしたが、その子・高森惟居は一計を案じ、表向きは降伏しながらも島津軍を高森城で急襲、全滅させたのです。

この反撃に島津軍は動揺し、御船城攻略を放棄して撤退を余儀なくされました。

しかしこの勝利も束の間、島津義弘率いる主力部隊が侵攻すると、花の山城や御船城をはじめ、周辺の諸城は次々と陥落していきました。

再起を図った高森惟居は豊後への脱出を試みたものの、家臣に裏切られて討たれます

これをもって阿蘇氏の組織的な抵抗は終焉を迎え、肥後は島津の手中に落ちました。

滅びゆく運命の中で、阿蘇氏の旧臣たちは懸命に戦い、信義を貫いたのです。

彼らの抗戦は、島津氏の勢力拡大の中で、一筋の火のように輝く意地と誇りを見せつけました。

Webライター

華盛頓です。以前の大学では経済史と経済学史を学んでおり、現在は別の大学で考古学と西洋史を学んでいます。面白くてわかりやすい記事を執筆していきます。

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