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【戦国こぼれ話】織田信長の妻・濃姫(帰蝶)は、謎多き女性だった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長の妻は、濃姫(帰蝶)だった。(提供:イメージマート)

 織田信長が登場する映画「THE LEGEND & BUTTERFLY」の制作発表がされた。信長の妻である濃姫(帰蝶)はいかなる女性だったのか、その点を深掘りしてみよう。

■濃姫とは

 天文4年(1535)、濃姫(帰蝶)は美濃国鷺山城で誕生したという。父の美濃国の戦国大名・斎藤道三は、「蝮」と恐れられる存在であった。母は明智光秀の伯母にあたる小見の方といい、道三にとって3人目の妻である。

 なお、これまでは濃姫と言われてきたが(美濃から来た姫という意)、近年では帰蝶と言われるようになったので、以下、帰蝶で統一することとしたい。

 『明智軍記』や『大日本史料』所収の「明智氏一族宮城家相伝系図書」によると、帰蝶の父は明智光継であり、光秀の父である光綱は帰蝶の兄になっている。

 これが正しければ、光秀と帰蝶との関係は、いとこ同士ということになる。一説によると、光秀と帰蝶は恋仲だったといわれているほどだ。

 しかし、根拠となる『明智軍記』は質が悪い史料と評価されており、「明智氏一族宮城家相伝系図書」やその他の二次史料にしてもあてにならない。

 つまり、光秀と帰蝶がいとこ同士だったという説は、たしかな一次史料で裏付けられないのである。

 おまけに、系図の類には、光秀が斎藤道三に仕えていたと書いているものがある。こちらも、同様に一次史料で裏付けられず、不確かな情報である。

 したがって、光秀が斎藤氏の麾下にあったことから出自を解明しようとする向きもあるが、根拠不詳と言わざるを得ない。

■濃姫と織田信長の結婚

 帰蝶の父・道三はあらゆる権謀作術を駆使し、主の土岐頼芸(よりなり)の追放に成功し、美濃国一国を掌中に収めた。追い出された頼芸は、命からがら尾張国の織田信秀のもとに逃亡した。むろん頼芸は、黙ってはいなかった。

 頼芸の意向を受けた信秀は、道三の討伐を行うべく出陣した。天文16年(1547)以降、両者は戦いを繰り広げたが、同じ頃、織田家では三河国松平氏との戦いも抱えていた。2つの勢力との戦いが展開したため、織田家は不利となった。

 そこで、信秀は道三と和議を進めることとし、ついに翌天文17年(1548)に締結された。仲介を行ったのは、信秀の股肱の臣・平手政秀である。

 両家の和睦の証となったのが、信長と帰蝶との結婚であり、いうまでもなく政略結婚である。そして、実際に2人が結ばれたのは、天文18年(1549)のことだった。

 帰蝶が信長と結婚したのは、15才のときである。2人の結婚に関しては、『美濃国諸国記』『武将感状記』などの編纂物に多くの逸話が載せられている。

■濃姫にまつわる逸話

 輿入れの際、帰蝶は道三から短刀を手渡され、「信長が本当にうつけ者ならば刺し殺してしまえ」と言われたという。

 これに対して帰蝶は、「父上を刺し殺すかもしれません」と返答したエピソードがある。帰蝶はさすが「蝮」の娘といったところで、気の強い女性をイメージするだろう。

 そのような会話が交わされるなか、帰蝶の不審な動きを察知した信長は、わざと夜中に寝所を出て奇妙な行動を取った。帰蝶に理由を尋ねられると、信長は「斎藤氏の家臣から離反の知らせを待っている」と返答した。

 帰蝶は直ちに道三にこの情報を伝えると、道三は該当する家臣を刺し殺したという。以上の話は、おそらく道三や帰蝶が油断ならない人物であることを強調するためのもので、史実とは認めがたい。

■むすび

 信長と帰蝶との間には子がなかったといわれ、あまり2人の交流は知られていない。豊富なエピソードの陰に隠れて、2人の真の生活にはわからないことが多いのだ。没年についても不明であり、墓は大徳寺(京都市北区)の織田家の墓所にある。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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