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関ヶ原合戦から2年後、突如として佐竹氏が秋田への移封を命じられた理由とは?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(提供:イメージマート)

 サラリーマンの方の中には、急に転勤を告げられてお困りになる人もいるだろう。常陸佐竹氏は関ヶ原合戦で態度を明確にしなかったが、戦後から2年後に秋田への移封を命じられた。その理由を考えてみよう。

 常陸国の名族として知られる佐竹氏の本拠は、太田城(茨城県常陸太田市)だったが、のちに水戸城(同水戸市)へ移した。佐竹義宣は水戸城を大改修し、城の名前ももとの馬場城から水戸城に変更したのである。

 天正18年(1590)に豊臣秀吉による小田原征伐(北条氏討伐)がはじまると、佐竹氏は豊臣秀吉に味方したので加増され、計約35万石を安堵された(最終的に約54万石)。以後も佐竹氏は、家名を保つことに成功したのである。

 慶長3年(1598)8月に秀吉が亡くなると、状況は一変した。慶長5年(1600)、西軍を率いる毛利輝元、石田三成と東軍を率いる徳川家康が雌雄を決することになったのだ(関ヶ原合戦)。

 関ヶ原合戦を迎える直前、義宣は西軍と東軍のいずれに与するか家中で議論を重ねたが、明確な結論を出すことができなかった。その結果、佐竹氏は西軍、東軍のいずれに与することなく、中立的な態度を取ったのである。

 戦いの結果、勝利したのは家康が率いる東軍だった。合戦の終了後、家康が主導して戦後処理を終えたが、佐竹氏の処遇は明確にされなかった。その理由は、決して明らかではない。

 慶長7年(1602)4月、義宣は上洛して伏見城で家康と面会し、東軍に積極的に与しなかったことを謝罪した。そして、佐竹家の存続を強く要望したのである。

 事態が急変したのは、同年5月のことである。家康は、突如として義宣に国替えを命令したが、最初は移封先を明らかにしなかった。その後、転封先が出羽秋田であることが判明したのである。

 しかも、佐竹氏は約54万石を知行していたが、約20万石まで減封された。もとの知行は約54万石とはいえ、同族の多賀谷領などを含めると、実質的に80万石以上と見積もられるほどだった。なぜ、こんなことになったのだろうか。

 佐竹氏は関ヶ原合戦に出陣していなかったので、兵は消耗していなかった。さらに、水戸は江戸に近く、佐竹氏が攻め込む可能性が無きにしも非ずだったので、家康にとって佐竹氏は脅威だったといえる。

 関ヶ原合戦前、義宣は上杉景勝と結託し、家康を攻撃する密約を交わしていたという説もある。こうした様々な理由が重なって、佐竹氏は本拠の常陸水戸から出羽秋田への移封を命じられたといわれているが、なお検討の余地はあろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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