11月5日は津波防災の日 津波発生時は線路を横切ってでも高台避難
「津波防災の日」の原案は3月11日
11月5日は「津波防災の日」です。国民の間に広く津波対策についての理解と関心を深めるようにする目的で、平成23年(2011年)6月に成立した津波対策推進法で決まりました。
平成27年(2015年)12月の国連総会で、「世界津波の日」が11月15日に決まったのも同様の目的で、日本の「津波防災の日」が影響しています。
「津波防災の日」の原案は3月11日と、東日本大震災が発生した日でした。
平成23年(2011年)3月11日に発生した東日本大震災の教訓をもとに、政権与党の民主党は、津波に関する防災訓練や知識の普及を図るため、津波対策推進法案をまとめています。これは、前年6月に野党の自民、公明両党が提案していた津波対策の充実を求める法案を下敷きにしていたため、スピード成立が見込まれていました。
民主党と自民、公明両党の修正協議で、「津波防災の日」は、民主党の提案した3月11日ではなく、自民、公明両党が提出していた法案の11月5日に変更となっています。
この日は、安政南海地震が発生した日です。嘉永7年11月5日(1854年12月24日)の地震と津波で大きな被害が発生しています。このため、11月27日に安政と改元されていますが、当時は、改元されると公式文書は全て1月1日に遡って直しますので、嘉永7年におきた出来事は、全て安政元年におこった出来事になります。嘉永7年に発生した南海地震は、安政南海地震と呼ばれます。
安政南海地震では、今の和歌山県広川町の実業家、浜口儀兵衛(のちに梧陵と称した)が機転をきかし、稲むらに火を附けさせたので全村民がこれを目的に高台に向かって駆け出して助かったという「稲むらの火」の話が有名です。
広川町は、自民、公明両党の法案をとりまとめた自民党の二階俊博・元経済産業相の選挙区であったことから、マスコミ等の一部では、「和歌山だけを対象としたものなら11月5日でも構わないが、全国を対象とした法律で適用するのは我田引水」などの批判がでています。
しかし、津波災害から現在居住している住民を守っただけでなく、未来の住民をも守ったという最初の事例が安政南海地震のときの浜口儀兵衛の行動です。
ただ、私は、11月5日が「大きな津波被害があった日」ではなく、「津波に対しての対策を始めた日であり、その対策によって被害が大きく軽減できた日」と考えています。
津波防災の成功例の日を「津波防災の日」とするのは、意義あることと思います。
防災教育「稲むらの火」
嘉永7年の南海地震のとき、和歌山・浜口儀兵衛が稲むらに火をつけた話に感動した、神戸クロニクル社(貿易関係の英字新聞社)の小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)記者が書いたのが「A Living God(生き神様)」です。その書き出しは、私たちの神様と違って、日本には多くの神様がおり、その中には、生きている人が神様になっているというものです。
小泉八雲は松江師範学校(現島根大学)の英語教師時代に結婚した小泉セツのため、日本国籍をとる手続きが行われていた神戸で新聞記者をしており、4ヶ月前に帰化したばかりでした。日本のことを書いた英文が少なかったこともあり、「A Living God」は、師範学校での英語授業に使われます。つまり、結果的に、明治時代から教師に対しては防災教育が行われていました。
和歌山県の南部小学校教員の中井常蔵は、教師を養成する和歌山師範学校時代の授業でこれを学び、「地元にこのような偉人がいたのか」という強い衝撃を受け、「A Living God」をもとに、小学生にもわかりやすい話を作り、文部省の教材募集に応募したのが「燃ゆる稲むら(津波美談)」です。そして、採用され、実際に使われた教科書では「稲むらの火」と改題されました。 昭和12年(1937年)10月から約10年間、全国の尋常小学校では、「国語読本(5学年用)」に載った「稲むらの火」を使って防災教育が行われています。
「A Living God」、「稲むらの火」で書かれていることは、物語の性質上、デフォルメされ、真実とは違っています。
しかし、全国の尋常小学校で使われた「稲むらの火」によって、「地震がおきたら津波がくるので、高いところに逃げよ」という考えが多くの日本人に浸透し、その後、多くの人を津波被害から救いました。ただ、戦後になり、戦前の教育は軍国主義を助長するということで否定され、その結果、「稲むらの火」もなくなっています。
「稲むらの火」が国語教科書に復帰したのは、廃止から64年後の平成23年(2011年)4月です。小学5年生用国語教科書(光村図書出版)に、浜口儀兵衛の伝記『百年後のふるさとを守る』が載っていますが、東日本大震災には間に合いませんでした。
未来の住民を守る
「稲むらの火」のモデルとなった浜口儀兵衛は、紀州広村(現在の広川町)出身で、広村から関東に進出し、銚子で醤油を作って江戸で売ることで財をなしたヤマサ醤油の浜口家をついでいます。
代々、浜口家の当主は「儀兵衛」を名乗っています。
正月をすごすために広村へ戻り、そこで安政南海地震を経験します。浜口儀兵衛は、過去の伝承から大きな津波がくると思い、若者をつれて稲むらに火をつけてまわり、暗闇の中を逃げ回っている人が高台へ逃げるための目印にしたのです。
昭和9年(1934年)に浜口梧陵翁五十年祭協賛会が作った「浜口梧陵小伝」には、次のような浜口梧陵の手記が掲載されています。
嘉永七年寅十一月四日四ツ時(午前十時)強震ス。震止みて後直ちに海岸に馳せ行き海面を眺むるに、波動く模様常ならず。海水忽ちに増し、忽ちに減ずる事六七尺、潮流の衝突は大埠頭の先に当たり、黒き高浪を現出す。其状実に怖るべし。…。
五日。曇天風なく梢暖を覚え。…。果たして七ツ時頃(午後四時)に至り大振動あり、其の激烈なる事前日の比に非ず。瓦飛び、壁崩れ、塀倒れ、塵煙空を蓋ふ。…依って従者に退却を命じ、路傍の稲村に火を放たしむもの十余、以て漂流者に其身を寄せ安全を得るの地を表示す。此計空しからず。之に頼りて万死に一生を得たるもの少なからず。
浜口儀兵衛は、再来するであろう津波に備え、巨額の私財を投じて広村堤防を作っています。4年間にわたる土木工事の間、女性や子供を含めた村人を雇用し続け、賃金は日払いにするなど村人を引き留める工夫をして村人の離散を防いでいます。
浜口の作った堤防には松林の内側にロウソクの材料ともなるハゼの木が植えられ、堤防を保守する人々の手間賃の足しにするというところまで考えていました。(図1)
浜口儀兵衛が作った広村堤防は、安政南海地震から92年後の昭和21年(1946年)12月21日に発生した昭和南海地震の津波から多くの住民を守っています。
和歌山県で徹底している地震・津波・高いところ
東日本大震災の3年前、和歌山地方気象台で台長をしていた時の経験から、和歌山県では、一刻も早く高台へという考えが徹底していると思いました。
和歌山県南部には、図2のように高台に向かう道路が線路で切れているところがあります。この道は、普段は全く使わない道です。
しかし、地震が発生したら、かならず電車を止めますので、線路を横切ることで安全に最短で高台へ避難することができる道です。
紀州の浜口儀兵衛が稲むらに火をつけて村人を高台へ誘導したように、津波被害を防ぐには、一刻も早く高台避難です。
東日本大震災発生時にテレビで生放送されたものの、その後は放送されない衝撃の映像の一つに、ヘリコプターからの津波から逃げ回る車の映像があります。
津波の速度は速いので、車とはいえ、水平方向には逃げ切れません。生放送で映っていた車の多くは津波に巻き込まれています。
思わず、テレビに向かって高い所へ逃げて、逃げてと叫んでいました。
車で水平方向に逃げるのではなく、車を捨てて少しでも高いところに逃げることを試みたら、犠牲者は減っていたのではないかと思われます。
「地震・津波・高いところ」は忘れてはならないことです。
図1、図2の出典:著者撮影。