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豊臣秀吉が大失態を演じた佐々成政に切腹を申し付けた、当然の理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
佐々成政剃髪址。(写真:イメージマート)

 現在、尼崎市立歴史博物館で企画展「尼崎を駆け抜けた戦国武将 細川高国・三好長慶・佐々成政」が開催されている。今回は、佐々成政が豊臣秀吉から切腹を申し付けられた理由を考えてみよう。

 佐々成政は織田信長の家臣だったが、その没後は豊臣秀吉に従っていた。天正15年(1587)の九州征伐後、成政は軍功を評価され、秀吉から肥後国を与えられることになった。しかし、ここからが地獄のはじまりだった。

 成政は肥後国に入ると、領国支配を展開すべく国内の検地を行った。ところが、秀吉が成政に肥後国を与えた際、①国人らに従来どおり知行を許すこと、②検地を3年間実施しないこと、を求めた。肥後国をスムーズに支配するためだった。

 秀吉はじっくりと時間をかけて、少しずつ肥後国の支配を進めようとしたが、成政は何を焦ったのか検地を強行した。このことが原因で、肥後国一揆が勃発したのである。

 一揆を主導したのは、肥後の有力国人の隈部親永・親泰父子だった。隈部氏は菊池氏の家臣だったが、のちに大友氏に従った。成政は隈部父子を討伐すべく、親永が籠もる隈府城(菊池城:熊本県菊池市)に軍勢を派遣した。

 隈府城が落城すると、親永は親泰の居城・城村城(熊本県山鹿市)へ逃れた。成政が城村城の攻略に苦戦すると、肥後国人が結束して反抗してきた。一揆勢が成政の居城・隈本城(熊本市)を攻囲したので、成政は予想外の大苦戦となった。

 やがて、小早川隆景、立花宗茂の援軍が駆けつけたので、ようやく一揆が収束した。成政は危機を逃れたが、秀吉から大失態を追及された。これまで成政は秀吉に何度が反抗したこともあり、秀吉の怒りは頂点に達したのである。

 翌天正16年(1588)閏5月、秀吉から切腹を命じられた成政は、摂津尼崎(兵庫県尼崎市)で自刃した。成政は秀吉に謝罪し、安国寺恵瓊も助命嘆願を願ったが、秀吉は聞き入れなかったという。成政の墓は、尼崎の法園寺にある。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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