【京都市】山科区 (旧)東海道にある『五条別れ道標』は大切な道しるべ…
その昔、京都と江戸を結ぶ街道「東海道」が主要な道のひとつとされていました。
五畿とは、大和・山城・摂津・河内・和泉の畿内五国のこと、七道とは東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道という7つの区画を指します。
古代〜中世を通じて東西交通の重要な幹線道路として活躍していた「東海道」ですが、江戸時代に至ってその交通体系が本格的に整備されたので、「東海道」ができたのは江戸時代と言われています。
今では、京都から東京まで新幹線で2時間ほどで行けますが、その昔は、約500km東海道を歩き片道2週間かけて行き来していたそうです!なんとまぁ〜汗
歌川広重(1797-1858)による「東海道五拾三次」は、日本橋、京都、そしてその間にある53の宿駅を描いた人気のシリーズで、お土産物や教科書などでもよく見かける絵だと思います。
京都の最終地点とされる三条大橋について、以前書いた記事がありますのでご参照ください→
滋賀県大津から京都の三条へ向かうまでの間にある山科区には、『史跡 五条別れ道標』の石柱があります。
滋賀県にある「三井寺」の小関越が、ここの地から「五条大橋」に出て、「今熊野観音寺」や「清水寺」に向かったそうです。
京都では”分岐点”や”別れ道”を「別れ」という言い方をしたので、この地点から五条と三条に別れるという意味の石柱だとわかります。五条・野村・長谷・柊野(ひらぎの)という大きな4つの 「別れ」があり、五条別れは、その一つです。
この史跡道標は宝永4(1707)年建立。道標には、「右ハ三条通」「左ハ五条橋・ひがしにし六条大佛・今ぐまきよ水道」などと彫られています。
「ひがしにし六条」は「東西本願寺」のことで、東海道から別れて南に下がり、渋谷越で五条大橋方面へ出る道を教えているそう。
東海道を大津方面から来た旅人にとって、五条橋、東西本願寺、大仏方広寺、今熊野観音、清水寺方面への近道を示す役割を担っていた大切な石柱です。
なんだか、普通に道を歩いているだけでも、道は続き、その歴史が続いているのだなぁと実感させられる今日このごろです。
史跡・五条別れ道標
京都府京都市山科区御陵中内町