【深読み「鎌倉殿の13人」】佐藤浩市さんが演じる上総広常とは、いったい何者だったのか
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第15回では、ついに上総広常が暗殺された。大変重要な人物なので、以下、改めて詳しく掘り下げてみよう。
■上総一族は坂東八平家の一つ
上総氏は坂東八平家(千葉、上総、三浦、土肥、秩父、大庭、梶原、長尾)の流れを汲む名族で、その祖は平常長の五男・常晴である。
常晴は下総国相馬郡(現在の茨城県取手市、千葉県柏市ほかの地域)を支配して相馬五郎と名乗り、のちに上総権介の地位を世襲した。
常晴の没後、養子の常重(常晴の兄・常兼の子)が家督を継承した。常重は下総国相馬郡の支配権を継承するだけでなく、実父・常兼の死後には下総国千葉郡も領し、下総国内に2郡を支配する大豪族になった。
保延2年(1136)、常重は相馬御厨をめぐってトラブルが生じ、源義朝(頼朝の父)の干渉を許した。その際、義朝に与して、常重と所領争いをしたのが常澄(常晴の子)だった。
この常澄こそが、広常の父である。以後、常澄・広常父子と常重・常胤父子の争いは、しばらく続いた。
■上総広常の台頭
広常は常澄の八男として誕生した(生年不詳)。常澄・広常父子は、常重・常胤父子との争いを有利にすべく義朝に味方した。保元元年(1156)に保元の乱が勃発すると、常澄・広常父子は義朝に従い勝利した。
平治元年(1159)に平治の乱が起こると、常澄・広常父子は義平(義朝の子)に属して平家と戦ったが、敗北。常澄・広常父子は戦場を離脱し、本拠に逃げ帰った。
その後、常澄が亡くなると、広常は平家に帰伏し、常澄の遺領に加えて、上総介としての権限も継承した。
治承3年(1179)、広常は上総介に就任した平家の譜代の家人・伊藤忠清とトラブルになり、平清盛との関係が悪化した。さらに、下総国では平家の姻戚の藤原親政(妻は平忠盛の娘)が勢力を伸ばしていた。
広常は平家から圧迫されたので、やがて反感を募らせるようになった。
とはいえ、上総国は親王任国だったので、上総介は事実上のトップである。それゆえ、広常は平家ですら一目置く存在だった。広常が非常に警戒されていた理由でもある。
■頼朝挙兵後の広常
治承4年(1180)、源頼朝は打倒平家の兵を挙げ、山木兼隆を討ったが、大庭景親と戦って敗北。頼朝は、安房国に逃れて再起を期した。
安房国に逃れた頼朝は、東国各地の豪族に打倒平家の挙兵を呼び掛け、味方を募った。そのなかの一人が広常で、すでに上総国などに盤踞した平家与党を討っていた。
広常は約2万の軍勢を引き連れて、頼朝のもとに参上したが、もし頼朝に将としての器がなければ、討ってしまおうと考えたという。広常は、まだ頼朝を信用していなかった。
しかし、その態度を見透かしていた頼朝は、広常の遅参を手厳しく注意した。広常は頼朝がペコペコしなかったので、不意を衝かれた。これに感嘆した広常は、頼朝に恭順の意を示した。
とはいえ、この話は出来すぎており、史実か否か検討を要しよう。頼朝の偉大さを後世に伝えるための単なる逸話に過ぎない可能性もある。
広常が率いた軍勢は、約2万と言われているが、諸書により数が違う。『源平闘諍録』では1千、『延慶本平家物語』では1万と書かれており、そもそも1万、2万という軍勢は動員が可能なのか疑問である。『源平闘諍録』の1千というのが妥当ではないか。
■むすび
広常が東国でひと際威勢を保持していたのは、疑う余地はないだろう。頼朝は後白河法皇から「寿永2年の宣旨」を得て、東国支配の許可を得た。
そんな頼朝は、広常が将来にわたって障壁となると考えたのだろう。常日頃、広常は東国の自立を主張し、頼朝の上洛志向を牽制したという。
しかし、実際は頼朝が広常の存在を危険視し、「寿永2年の宣旨」を盾にして、広常を謀殺したのではないだろうか。広常の死後、その遺領は千葉氏と三浦氏に分与されたので、彼らが関与した可能性もあるのではないだろうか。