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関ヶ原合戦後、石田三成の子の重家は、どういう運命をたどったのだろうか?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
石田三成。(提供:アフロ)

 現在でも会社が倒産した場合、社長の家族らが離散するという悲劇がある。それは戦国時代も同じことで、敗者の家族には悲惨な結末が待っていた。関ヶ原合戦で西軍を率いた石田三成は敗北し、斬首されたが、子の重家はどうなったのか考えることにしよう。

 慶長5年(1600)9月15日、西軍の石田三成は東軍の徳川家康に関ヶ原で戦いを挑んだが、敗北。三成は逃亡したが、捕らえられて斬首された。三成が斬られたことで、すべてが終わったわけではない。石田一族には、過酷な運命が待ち構えていた。

 関ヶ原合戦後、石田一族は東軍の餌食になった。三成の本拠の佐和山城(滋賀県彦根市)を守備していたのは、三成の父・正継と兄の正澄だった。

 佐和山城を守備していた兵力は約2千8百といわれるが、東軍の小早川秀秋は約1万5千の兵で攻めてきた。正澄は大手門を守り、攻め込む敵をたびたび追い払ったというが、圧倒的な兵力差はいかんともしがたいものがあった。

 衆寡敵せず佐和山城はあっけなく落城し、正継・正澄父子は自害したとも、城内で焼死したともいわれている。一説によると、正継は自害した直後、外甥にあたる土田成久に介錯されたと伝わる。なお、正澄の嫡男・朝成、主水正もそのとき亡くなった。

 三成には、2人の子がいた。長男の重家と次男の重成である。そのうち、重家はどのような運命をたどったのか、考えることにしよう。

 関ヶ原合戦の開戦時、重家は大坂城にいた。ところが、西軍の敗北とともに重家は大坂城を出奔し、京都の妙心寺(京都市右京区)の塔頭・寿聖院に助けを求めた。

 住職の伯蒲慧稜は重家に出家を勧め、宗享という法号を与えた。その後、伯蒲慧稜は京都所司代・奥平信昌に重家の助命嘆願を行い、家康から許しを得たのである。

 元和9年(1623)、重家は雲屋祖泰から三世として石田家の菩提寺・寿聖院を継承した。貞享3年(1686)閏3月8日に104歳で亡くなったが、生年については諸説あり、本当にここまで長命だったのかは不明である。

 なお、戦後の重家の動向については異説がある。重家は晩年に至って還俗し、岸和田藩主の岡部宣勝の庇護を受けつつ、岸和田(大阪府岸和田市)で没したという説である。

 あるいは、戦後に重家が逃げ込んだのは妙心寺ではなく高野山で、高野山(和歌山県高野町)に逃亡した直後に殺害されたという。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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