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荒木村重が天下人の織田信長を裏切った、誰もが納得する理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長。(提供:イメージマート)

 現在、尼崎市立歴史博物館で企画展「尼崎を駆け抜けた戦国武将 細川高国・三好長慶・佐々成政」が開催されている。今回は、荒木村重が天下人の織田信長を裏切った理由を考えてみよう。

 当初、荒木村重は摂津・池田氏の家臣だったが、やがて織田信長に登用されて摂津国西部を与えられ、居城を有岡城(兵庫県伊丹市)とした。ところが、天正6年(1578)10月、村重が信長に謀反を起こす。

 村重が寝返った理由は諸説あるが、カギとなるのは本願寺光佐が村重・村次父子に宛てた起請文である(「京都大学所蔵文書」)。この書状には、村重の新しい知行について、毛利氏の庇護下にある将軍・足利義昭に従うよう記されている

 村重はかねて信長への謀反の気持ちをいだいており、織田氏・毛利氏との間で揺れていた。その後、村重は大坂方面指令官、中国方面指令官の地位を佐久間信盛、羽柴(豊臣)秀吉にそれぞれ奪われた。村重は先行きに絶望して、信長に謀反を起こしたという。

 村重が摂津下郡を支配する際、村重に抵抗した牢人衆(国人・土豪)は無視できない存在だったという。また、各地で一向一揆が次々と挙兵する状況下で、本願寺と農民が連携を強め、村重に一揆を起こすことが懸念されたと指摘される。

 究極の選択を迫られた村重は、信長との関係を断つ道を選び、本願寺や百姓らに与することを決意したという。この点に関しては、少しばかり疑問が残るが、いずれにしても、村重が毛利氏や足利義昭を頼る道を選んだのは事実である。

 村重の与力大名の高槻城主(大阪府高槻市)の高山右近や茨木城主(大阪府茨木市)の中川清秀らは、村重から謀反の件を相談されると、従う意向を示していた。2人は心強いパートナーとなった。

 村重は本願寺・毛利氏・足利氏将軍家だけでなく、摂津国内の有力な高山氏や中川氏からの協力を確約されたので、信長に叛旗を翻すことを決心したと推測される。

 村重はやみくもに信長から離反したのではなく、十分な協力関係を確認したうえで、判断したということになろう。村重は信長に従うよりも、足利氏、毛利氏、大坂本願寺の陣営に身を投じたほうが有利と考え、一か八かの賭けに出たのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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