『鎌倉殿の13人』の女装はやがて一勝三敗となるか 実朝暗殺へとつながる「源氏伝統の秘策」の悲劇
和田一族の晒された首は二百三十四
『鎌倉殿の13人』は第41話で和田合戦を迎える。
北条義時らの奸計による和田義盛とその一族の虐殺である。
一族みな殺しである。
『吾妻鏡』(新人物往来社の昭和五十二年版。以下同断)によると「固瀬(かたせ)川のほとりに梟するところの首、二百三十四」とある。(建暦三年五月四日の項)
和田一族の首が234、晒されたわけである。
鎌倉は恐ろしい。
当時の資料を読んでいると常に、野蛮きわまりない、という印象しか持てない。
やがて京都と鎌倉の対決につながる「実朝暗殺」
和田合戦がきっかけとなり、それは実朝暗殺へとつながっていく。
尊皇の意志の篤かった実朝が殺されると、京都政権は動揺する。
やがて京都と鎌倉の対立が激化し、ドラマは「後鳥羽上皇と北条義時の対決」というクライマックスを迎えることになる。
実朝暗殺はこの時代の一つの画期となる。
そのことについて、小林秀雄の『実朝』を読んでいて、気づいたことがある。
女刺客と女装の話だ。
小林秀雄の紹介する「実朝への女刺客」エピソード
小林秀雄は、昭和18年(1943年)、雑誌の文学界に『実朝』という評論を載せている。
実朝の歌と、悲劇的な生涯について書かれている。
そこには和田義盛が殺されて三か月後、建暦三年八月の夜の「実朝変異に会う」という話が紹介されている。
「何と実朝の心について沢山のことを語ってくれるだろう」として「僕(小林秀雄)はこの文章が好きである」と記している。
鎌倉御所の前庭を深夜、若い女が走り抜ける
『吾妻鏡』建暦三年の八月十八日の項目である。
その夜、ちょうど日が替わるころ(子の刻)、寝られなかったのか、将軍実朝は御所の南面に出てくる。十八夜の月が煌々と美しく、蟋蟀の音が悲しげで、それを眺めながら実朝は歌を五、六首、吟じていた。
すると深更のころ(丑の刻)、目の前の庭を「青女」が走りぬけたのだ。(吾妻鏡の表記は「青女一人、前庭を奔り融る(はしりとおる)」)。
青女とは若い女のこと。
しきりに誰なのかを問うたのであるが、ついには何者なのか名乗らなかった。
やがて、門外にまで至ったところで、突然、女のまわりが光り輝く。まるで松明が灯されたようだった。
それから実朝は人を呼んだのだが、逆さまに衣装をつけて慌てて駆けつけてくれた陰陽師(当時の科学的判断を下す技官)は、とりたてた変事ではございますまい、と答える。
のちすぐさま実朝は、この南の庭にて招魂祭を催した。
そういう記述である。
実朝が寵愛した和田義盛が死してまだ三か月あまり。鎌倉中をその亡霊が歩いているような感覚を若き将軍は持っていたのであろう。
小林は実朝の心の鋭敏さに触れている。
トウ(山本千尋)は実朝(柿澤勇人)を殺しに行くのか
『吾妻鏡』の項目立てでは「変異に会う」とされているが、小林秀雄は冷静に「前庭を奔り融った女は刺客だったかもしれない」と記している。
昭和18年の文章である。「怪力乱神を語らず」ということだろう。
これを令和4年の頭でみれば、つまり毎週『鎌倉殿の13人』を見ている頭で読むと、実朝が見たものの正体はすぐ、おもいついてしまう。
それは、トウ(山本千尋)ではないのか。
『鎌倉殿の13人』で女刺客といえば、トウである。
もし、このエピソードが映像化されるのなら、庭先を走るのはトウだろう。
善児と違って、トウは何回か暗殺に失敗しており、このときもまた実朝暗殺に訪れたが、将軍、なんだか歌を歌ってるばかりで寝そうにない、と走り帰ろうとして見つかったのかもしれない。
和田一族を排除したあとにすぐ、源実朝も消し去ろうとした誰かがいたことになる。
この見落としそうな『吾妻鏡』でのエピソードはとても興味深い話である。
小林秀雄のこの文章を読んでから脚本家は(読んだかどうかは定かではないが)、いろんなものをおもいついたのかもしれない。
源家伝統の「一勝一敗の女装」
そして建保七年(1219年)正月、実朝(柿澤勇人)は公暁(寛一郎)に殺される。
それよりはるか前、第40話で、和田義盛(横田栄司)と北条義時(小栗旬)の対立をゆるめようと、北条政子(小池栄子)は、何とか実朝と和田義盛を会わせようとする。
そこで政子は「我が家に伝わる秘策」として女装をおもいだす。
「今のところ一勝一敗ですが」とも言っていた。
一勝はおそらく第1話で源頼朝(大泉洋)が北条の屋敷から逃げ出すとき、一敗は木曽義仲の子の義高(市川染五郎)を頼朝の監視から逃がすとき(17話)、それぞれ女装したことを言ったのであろう。
「我が家に伝わる秘策」だから、源実朝が女装して和田に会いにゆくものだとおもっていたところ、女装している男は髭づらの和田義盛であったという落ちがついていた。ちょっと笑った。
ただ、この笑いは、悲劇への前フリだったのではないだろうか。
暗殺者の公暁は「女装していた」
小林秀雄が『実朝』で、鶴岡八幡宮で実朝を暗殺した公暁は「女装していた」と指摘している。出典は『増鏡』。
『増鏡』(岩波文庫版)からそこを引用する。(上巻第二「新嶋もり」)
「見る人も多かるなかに、かの大徳(公暁)うちまぎれて、女のまねをして、白きうす衣ひきをり(…)」。
公暁は群衆にまぎれ、女装して、白き薄い衣をひっかぶっていた、というのだ。
実朝が車より降りてくるのを覗くように見て、のち、その首を打ち落とした。
公暁は、実朝を殺したのち、わたしが鎌倉殿になるのだ(「われ東関の長に当るなり」『吾妻鏡』)とも言っている。
源家に伝わる秘策で実朝を殺した
源実朝は源頼朝の子であり、公暁は源頼朝の孫(頼家の子)である。
つまりどちらも源家の御曹司。
「我が家に伝わる秘策」としての「源家の御曹司の女装」はつまり、公暁によってそれを受け継がれ、公暁の野望を果たしたことになる。
ただ、公暁はすぐさまに討たれてしまう。
源家の女装は、これで二勝二敗になるのか、三勝一敗なのか一勝三敗か、まわりを欺き、女装によって目的を遂げた。
そしてそれは源氏将軍の血筋を絶やしたことになる。
めぐりめぐる因縁である。
実朝暗殺には三浦義村と北条義時が関わっていたか
和田義盛の女装は、ある種の茶番のように使われていながら、鎌倉最大の悲劇の布石となるのかもしれない。
いやまあ、『鎌倉殿の13人』で公暁が「薄い衣」を覆いかぶるのかどうかは、定かではないのだが。
公暁が実朝の首を落としたあと「私が鎌倉殿になるから、早く計議をめぐらせようぞ」と知らせた相手は、三浦義村(山本耕史)である。彼が関わっていたのは間違いない。
また暗殺直前に現場から離脱した北条義時が無関係だったと考えるのはむずかしい。
そういう鎌倉の悲劇である。