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日本人選手なのにカタカナ表示? 懐かしの野球場・東京スタジアム

楊順行スポーツライター
近代的でありながら下町情緒にあふれた東京スタジアム。1977年4月に解体された(写真:Natsuki Sakai/アフロ)

 ご本人に確認してみたいことがあった。

「ダイゴさん、スコアボード上では、お名前がカタカナ表記でしたよね?」

 たぶん小学生のころだから、1970年か71年。地方から東京に旅行に来て、東京スタジアムでプロ野球を見た。相手は忘れたが、むろんロッテ戦。ファウルボールを拾ったら係員がガムをくれたこと、山崎裕之がホームランを打ち、スコアボードの上部でHomerunの電飾が輝いたこと、そしてなにより、日本の選手なのにロッテのある選手の名前がカタカナで表示されているのが印象的だった。

 醍醐猛夫さん。早稲田実高から57年に毎日(のちロッテ)入りし、捕手として18年の現役生活のあともコーチなどを務めたその人に、ちょうど取材する機会があったのだ。

「そうです。画数が多いし、むずかしい漢字だからでしょう。ファンの方には"醍醐さんって、外国人選手だと思っていました"と言われたりしましたね(笑)」

 その醍醐さんによると、東京スタジアムは素晴らしい球場だった。当時の永田雅一オーナーが、SFジャイアンツのキャンドルスティックパークをモデルに、「大リーグのボールパークのような最先端の設備でありながら、庶民が下駄ばきで気軽に通えるような球場」を夢見て建設したもの。当時の日本の球場としては考えられないくらい、先進的だった。醍醐さんは言う。

「まず、ロッカーが広い。ファンの方はたかがロッカーと思うかもしれませんが、試合前には集中し、試合のあとはリラックスする、選手にとっては重要な場所なんです。たとえば着替えるとき、少し動くだけで肩が触れあって周囲に気を遣うようでは、ストレスがかかるでしょ。当時の日本のロッカーと言えば、ほとんどそんな感じだったんです。だけど東京スタジアムのロッカーは、広々とゆったりしていてね。すごく安らげる貴重なスペースでした」

ロッカーで冷えたビールを

 たとえば当時、アルトマンという外国人選手がいた。ロッカーが隣り合わせの醍醐さんと2人、共同で冷蔵庫を買ってロッカー間のスペースに置き、ビールを冷やしておく。で、試合終了後はグビッと一杯やりながらしばしくつろぐのである。それくらい、リラックスできる場所だったわけだ。ほかにもトレーナー室、医務室があったり、ゆったりした客席はいまでいうバリアフリー。レフトの観客席下にはボウリング場まであった。

「当時は大ブームでね。シーズンオフにもトレーニングを兼ねてよく楽しんだので、みんなアベレージが200以上です。オフの12球団対抗ボウリングなんてイベントでは、そりゃあ敵なしでしたね」

 ただ、設備的には申し分なかったが、両翼90メートル、センター120メートル、おまけにふくらみのないつくりのため、なにしろ狭い。当然、バッテリー泣かせだ。

「いつかの西鉄戦で、3点リードの9回、2死満塁でロイというバッターを迎えました。詰まらせたんです、バットが折れたんですから。だけどその当たりそこねが、左中間のフェンスを越えて逆転満塁ホームラン。狭いなぁ……と、このときばかりは名物のホームラン電飾が恨めしい(笑)」

 71年5月3日の東映戦では、延長10回表、作道烝の代打満塁本塁打から大下剛史、大橋穣、さらに張本勲、大杉勝男と、なんといまも日本記録の5者連続ホームランを浴びている。醍醐さんによると、そのうち1、2本は東京スタジアム以外なら入っていないだろう、と言う。

「ピッチャーはそろっていたんですよ。小山正明さん、小野正一さん、時代が下ったら木樽(正明)、成田(文男)、村田(兆治)……。だから確かに神経は遣ったけど、むちゃくちゃ打たれた記憶はないですね。ファンの方との距離も、すごく近かった。南千住という下町ですから、みなさん夕食が終わってから夕涼みがてら、それこそ下駄ばきでくるような雰囲気でね。ほろ酔い気分でガラの悪い野次を飛ばすから、ビジターの選手はかりかりきていましたよ(笑)。

 そういえば球場の近くにおいしい中華屋さんがあって、選手も報道陣もみんな、出前を頼むんです。ただ小さい店だから、出前が立て込むとてんてこ舞いで、そのうち野球のある日は出前専門になっちゃった。でもその分、古くからのお客さんをないがしろにしたものだから、ロッテが移転してからは引っ越したみたいですよ。悪いことをしました」

 ただ、開幕試合には3万5000人が詰めかけ、開場の62年は70万人を動員したものの、ロッテの成績がふるわなくなるとじり貧だった。67年、近鉄との最終戦ダブルヘッダーは、どちらも観客が200人! だったという。72年は、年間31万人。その年限りでロッテは撤退し、スタジアムも閉場したから、プロ野球で使われたのはわずか11年だったことになる。

 醍醐さんも昨年暮れ、鬼籍に入った。こんな言葉を思い出す。

「あんなに地元密着で下町情緒にあふれ、ノスタルジックな球場がいまの時代にあったら、むしろ東京名物になっていたかもしれませんね」

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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