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織田一族で、織田信長に逆らって消えた3人の武将

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長。(提供:アフロ)

 会社で誰かが社長に選出されても、反抗的な態度をとる面々がいるのは珍しくない。父の死後、家督を継いだ織田信長に対しても同じで、反抗的な態度を示す一族がいたので、うち3人の武将を紹介することにしよう。

◎織田信友(?~1555)

 信友の養父は尾張下四郡の守護代の織田達勝で、その死後に家督を継いだ。信長は家来筋になる。織田信秀(信長の父)の死後、信友は信勝(信長の弟)の家督継承を支持し、信長と対立した。しかし、天文21年(1552)の萱津の戦いで、信友は信長に敗れた。

 天文24年(1554)、信友が斯波義統を自害に追い込むと、義銀(義統の子)は信長のもとに逃れた。同年の安食の戦いで信友は信長に敗れ、森可成に討たれた。その結果、尾張下四郡の守護代家の織田氏(清洲織田氏)は、滅亡したのである。

◎織田信安(生没年不詳)

 信安は、尾張上四郡の守護代を務めていた。天文22年(1553)、信安の配下にあった稲田氏は、信長に内通しているとの噂が流れたので殺害された。弘治2年(1556)、斎藤道三(信長の岳父)が子の義龍に討たれると、信安は義龍と協力し、信長に対抗したのである。

 その後、信安は家督を次男の信家に譲ろうとしたが、失敗。長男の信賢により、居城の岩倉城から追放された。永禄元年(1558)、信賢は浮野の戦いで信長に敗れ、尾張上四郡の守護代家は、事実上滅亡した。以降の信安の動向は判然とせず、没年も諸説ある。

◎織田信勝(?~1558)

 信勝は、信長の弟である。弘治2年(1556)、信勝は林秀貞、柴田勝家らとともに、信長に兵を挙げたが(稲生の戦い)、敗北を喫した。信勝は母の土田御前の仲介もあり、林秀貞、柴田勝家らともども信長から赦免されたのである。

 ところが、信勝の信長への敵対心は消えず、尾張上四郡守護代の織田信安と通じるなどしていた。信勝は津々木蔵人を登用したので、家中も動揺し、勝家は自身を暗殺する計画を知り、信長にことの次第を密告した。信勝は病と称する信長を清州城を見舞いに行き、暗殺されたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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