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【先取り「どうする家康」】徳川家康の三大危機の1つ「三河一向一揆」とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:アフロ)

 1月8日からNHK大河ドラマ「どうする家康」がはじまる。NHKの「歴史探偵」では徳川家康の三大危機の1つ三河一向一揆を取り上げていたので、詳しく解説することにしたい。

 徳川家康を驚愕させる大事件が起こった。それは、永禄6年(1563)9月から翌年3月まで続いた三河一向一揆である。矢作川流域には浄土真宗本願寺派の有力寺院が多数あり、寺内町を建設するなどして当該地域の流通などを掌握していた。

 一向一揆とは、室町・戦国時代に近畿・北陸・東海地方を中心に起こった一向宗(浄土真宗)門徒による一揆である。僧侶、門徒の農民だけでなく、名主・地侍を巻き込んで、守護や荘園領主と戦った。

 中には、加賀一揆のように一国を支配したものもあった。一向一揆は戦国社会を席巻する一大勢力になったが、天正8年(1580)の石山合戦(織田信長と大坂本願寺の戦争)で敗北を喫し、以後は衰退していった。

 三河一向一揆の構成員は、領主と距離を置く自治を展開していた。桶狭間合戦で今川義元が敗死した後、家康は岡崎復帰を果たし、三河の領国化を進めていった。しかし、家康の政策は農民や寺院への過剰な負担となり、一向宗寺院の不入特権を侵すことになった。

 一向宗寺院は寺内町を形成し、流通機構を掌握するなどし、大きな既得権益を持っていたため、家康は猛烈な反発を受けたのである。家康は三河の領国支配を着々と進めたが、皮肉なことに一揆を引き起こすことになったのだ。

 三河国内では一向門徒に加え、反対派の国人・土豪、農民が家康に反旗を翻した。大きな痛手となったのは、松平家臣団の一部が一揆勢力に加わったことである。

 本多正信、本多正重、渡辺守綱、蜂屋貞次、夏目吉信、内藤清長といった面々である。必然的に家康は苦境に立たされ、これまでの人生のなかで最大の苦境を迎えた。

 家康は苦戦の末に一揆勢力を退け、本願寺派寺院を破却した。この間、鎮圧までに半年余の期間を要した。一揆が平定され、家康は家臣団を貫高制などで再編し、反対派の国人らを家臣団から一掃した。

 家康の家臣のなかには、侵攻と家康への忠誠との間で、いずれを選択するか悩み苦しむ者もいた。戦後、家康は帰参を希望する者があれば、喜んで迎えたといわれている。結果、一揆の鎮圧により、家康家臣団は強化されたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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