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毎月6日、帰れない遺骨7万柱のための読経を60年以上続けた僧侶が死去 広島・呉の吉川信晴さん

宮崎園子フリーランス記者
原爆供養塔前で法話をする吉川信晴さん(2022年7月6日、宮崎園子撮影)

 広島原爆で犠牲になり、一家全滅や名前がわからないなどの理由で引き取り手がない遺骨約7万柱を納めた広島・平和記念公園内の原爆供養塔。ここで毎月6日に読経をする営みを60年以上にわたって続けてきた僧侶、吉川信晴(しんじょう)さんが9月19日、亡くなった。87歳だった。葬儀は家族のみで営んだ。喪主は長男・信顕さん。被爆地・広島にとっての「月命日」でもある6日、ともに原爆供養塔に集まってきた人たちは10月6日、吉川さんのいない供養塔前で故人を偲び、あらためて原爆犠牲者たちのために手を合わせた。

毎月6日にここに通った吉川信晴さんがいない原爆供養塔前の6日朝(2024年10月6日、宮崎園子撮影)
毎月6日にここに通った吉川信晴さんがいない原爆供養塔前の6日朝(2024年10月6日、宮崎園子撮影)

 広島県呉市の浄土真宗白蓮寺の住職だった。父の吉川元晴さんは、原爆供養塔建立に力を尽くした一人。1945年8月、親戚を捜して原爆投下数日後の爆心地付近に入り、ほかの僧侶とともに無数の遺骨を拾い集めてひとところに積み上げた。翌年、市民からの寄付によって市内各地に仮埋葬されていた遺骨を集めた仮納骨堂などが建立され、1955年には、直径16メートル、高さ3・5メートルの円形の土盛りの頂点に石造の塔を据えた現在の原爆供養塔の形になった。

2019年9月6日、原爆供養塔前の吉川信晴さん。この頃はまだ、立って法話をしていた(宮崎園子撮影)
2019年9月6日、原爆供養塔前の吉川信晴さん。この頃はまだ、立って法話をしていた(宮崎園子撮影)

 原爆供養塔の完成翌年に父元晴さんが急死した時、吉川さんはまだ大学生。その数年後、父の遺志を継いで毎月6日朝に供養塔に赴き、お経を唱え始めた。元晴さんが作った詩歌「原爆と世界平和」を詠み、法話をしてきた。要介護5の妻を自宅で介護する生活が始まってからも、岡山に住む長女の村上妙子さん(49)に留守を託し、バスで呉から広島に通い続けた。今年1月に妻を亡くしたこと、時報できちんと時刻を確認の上、毎朝6時に寺の鐘をつくことを日課にしていること、自宅で転倒したこと、気になった新聞記事…日々の暮らしの出来事や世界情勢などに触れつつ、人間の心に潜む我心と我欲が、戦争を引き起こすのだということを集まった人たちの前で熱心に説き続けた。

2021年6月6日、原爆供養塔前の吉川信晴さん。妻の介護で腰を痛め、この頃には着座での読経・法話となっている(宮崎園子撮影)
2021年6月6日、原爆供養塔前の吉川信晴さん。妻の介護で腰を痛め、この頃には着座での読経・法話となっている(宮崎園子撮影)

 20日、いつもの朝6時の鐘の音が聞こえないことを不審に思った近隣住民からの連絡によって、吉川さんが自宅で倒れていることが発覚した。警察による検死の結果、亡くなったのは19日だとわかった。家族によると、慢性の心臓疾患を抱えていたというが、亡くなる2日前もいつもの様子で自転車で買い物に通う姿を近隣の人が目撃していたという。

9月6日、いつもと変わらぬ様子で原爆供養塔前にきた吉川信晴さん(宮崎園子撮影)
9月6日、いつもと変わらぬ様子で原爆供養塔前にきた吉川信晴さん(宮崎園子撮影)

 「私たちにとっても急なことで気持ちの整理がつかないが、祖父の遺志を継いで欠かさずここに通った父の死を、ここに眠っている人たちやここに集まる皆さんにお伝えしなければ、と思い、今日ここに来た」。6日朝、兄や弟らとともに原爆供養塔に来た妙子さんは時折声を震わせながらそう語った。

2021年11月6日、原爆供養塔前の吉川信晴さん。この日はボランティアガイドたちの前での法話となったので、いつもとは違う南側での法話となった。(宮崎園子撮影)
2021年11月6日、原爆供養塔前の吉川信晴さん。この日はボランティアガイドたちの前での法話となったので、いつもとは違う南側での法話となった。(宮崎園子撮影)

 晩年の吉川さんは、X(旧ツイッター)に仏の教えなどを投稿することを生きがいにしており、9月19日の朝4時41分、鬼子母神に関する6連投の2つ目を投稿したのが最後だった。遠く離れて暮らす家族のグループLINEに投稿している内容を見て、昨年秋に信顕さんが「Xで投稿したら」と勧め、使い勝手のわからない吉川さんに代わって妙子さんが投稿していたが、昨年末からは自力で投稿してきた。

吉川信晴さんを偲んで線香を焚く遺族(2024年10月6日、宮崎園子撮影)
吉川信晴さんを偲んで線香を焚く遺族(2024年10月6日、宮崎園子撮影)

 《我心我欲の甘い蜜、断ち切る道は、唯一つ。己れを立てぬ『無我』。無上の智慧と慈悲。皆で共有(阿弥陀の名義)。この世界が佛の世界。安楽・極楽。 優越心、無く、対立無要。支配も無要。皆で善き世界を!》(2023年12月16日の投稿)

 《兵戈無用2。兵戈(武器)無用は、平和の証。『無用』は無我。己れを立てず、我心我欲を離れて、皆で幸せの心で成り立つ。無我なる無量の智慧と慈悲、皆で共有(阿弥陀の意)で成立する。平和の世界になる。戦争は、我心我欲が興し、兵戈が『重用』になる。どちらを選ぶか?心、次第。 兵戈無用1。2。 完》(2024年2月3日の投稿)

 自宅のファイルには、先々の投稿予定の文章が書き残されていたといい、妙子さんは家族葬を済ませた翌日の9月24日、吉川さんのアカウントで、投稿するはずだった鬼子母神の残りの文章を投稿した後、訃報を投稿した。「最後の投稿に『続く』と書いてあるのに続かないじゃん、と思って辛かった。だけど、父はこれを生きがいにしていたので続きを投稿した」と妙子さんは言った。「あと数日分、投稿予定のものが残っているのでそれを投稿し、アカウントはそのまま置いておこうと思います」

2022年12月6日、原爆供養塔前の吉川信晴さん(宮崎園子撮影)
2022年12月6日、原爆供養塔前の吉川信晴さん(宮崎園子撮影)

 吉川さん不在となった6日朝は、毎月ここに来ていた仲間が代わりに読経をし、集まった人たちがかわるがわる手を合わせた。「父の活動の一端をみなさんから教えていただいた。来てよかった」。吉川さんがいつも法話をしていた場所に立ち遺族を代表して挨拶をした信顕さん(53)は語った。この場所に来たのは初めてと言い、「6日というのは節目の日。父にとって重要な場所、重要な活動だった」。

生前の吉川信晴さんの定位置だった場所に立ち、遺族を代表して挨拶した長男の信顕さん(宮崎園子撮影)
生前の吉川信晴さんの定位置だった場所に立ち、遺族を代表して挨拶した長男の信顕さん(宮崎園子撮影)

原爆供養塔前に集まった人たちの前で父との思い出話を語る吉川信顕さん(宮崎園子撮影)
原爆供養塔前に集まった人たちの前で父との思い出話を語る吉川信顕さん(宮崎園子撮影)

 「ここに眠っている人たちは、今でも、戦争が終わったことも、あれが原爆だったことも知らないまま。自分が死んだということすら知らない。そんなことを人間がやったんです」。30年近くにわたって吉川さんとの親交がある広島市西区の渡部和子さん(80)は言う。家族や親類13人を失い、原爆供養塔に日々通って周辺を清掃したり、訪れる人に体験を語ったりしてきた佐伯敏子さん(2017年に97歳で死去)との出会いを機に毎朝ここに通い、清掃をしている。「私は信仰は違うけど、あってはならない戦争が今も懲りずに起き続けていることを考えると、吉川さんが繰り返し言っていた、『我心と我欲が戦争の元だ』というのは本当にその通りだと思います」

2023年4月6日、雨の原爆供養塔前で法話をする吉川信晴さんのために傘を差し出す渡部和子さん(宮崎園子撮影)
2023年4月6日、雨の原爆供養塔前で法話をする吉川信晴さんのために傘を差し出す渡部和子さん(宮崎園子撮影)

広島原爆の犠牲者のうち一家全滅や名前がわからない、といった事情で引き取り手がない遺骨約7万柱を納めた原爆供養塔(広島市中区、宮崎園子撮影)
広島原爆の犠牲者のうち一家全滅や名前がわからない、といった事情で引き取り手がない遺骨約7万柱を納めた原爆供養塔(広島市中区、宮崎園子撮影)

 

フリーランス記者

銀行員2年、全国紙記者19年を経て、2021年からフリーランスの取材者・執筆者。広島在住。生まれは広島。育ちは香港、アメリカ、東京など。地方都市での子育てを楽しみながら日々暮らしています。「氷河期世代」ど真ん中。

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