黒船来航の真実!アメリカの手のひらで踊らされた日本の決断
鎖国政策を貫く幕末の日本に突如現れ、開国を迫った黒船の来航。
当時の日本人は、初めてみる黒く塗装された鉄の船を「黒船」や「黒龍」とよんで恐怖を抱いたといわれています。
中学や高校の教科書にも登場する有名なワンシーンですが、このとき黒船が日本に訪れた理由は深く語られることはありません。
そこで今回は、黒船が日本に来航した目的についてみていきましょう。
□黒船来航とは
江戸幕府が鎖国政策を貫く1853年6月、アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む合計4隻の艦隊が日本に来航します。
この艦隊は、江戸湾の玄関口である「浦賀港」付近に停泊し、一部は測量と称して江戸湾の奥深く(浦賀港のすぐ近く)まで侵入。浦賀港周辺では、黒船来航に一触即発の緊張が走りました。
しかし、黒く塗装された鉄の戦艦に恐怖を抱いた江戸幕府は、ペリー率いる黒船艦隊の上陸を許可することにします。
そして、アメリカ合衆国大統領国書が渡され、翌年1854年に再び来航した黒船と日本政府は「日米和親条約」を締結したのです。
別名「神奈川条約」ともよばれるこの条約は、開国やアメリカ船の補給許可、日本に上陸したアメリカ人の自由権など日本側だけに義務が生じる不平等なものでした。
□ペリーの目論見
1776年に建国したアメリカ合衆国は、100年に満たない短期間でめざましい発展を遂げ、19世紀には産業革命を巻き起こしています。
先進国の仲間入りを果たした一方で、急激な工業化の発展に伴い、機械用潤滑油が枯渇。当時、機械用潤滑油として利用されていた鯨油は、鯨の乱獲が原因で入手困難となっていたのです。
そこで、アメリカ合衆国の指導者らは「他国の近海で捕鯨をしよう」と考えます。
そうして選ばれたのが日本でした。
海に囲まれた島国であり日本海や太平洋を近海に持つ日本は、鯨だけでなく豊富な魚類の生息地でもあり都合が良かったのでしょう。
さらに、当時の先進国のひとつである中国にも近く、日本は貿易の中継地点や停泊拠点としても非常に便利だったのです。
こうして、日本はアメリカの貿易拠点となるのですが、結果的に他国の商品や技術が流入することとなり、のちに日本もめざましい発展を遂げています。
アメリカの思惑により意図せず開国した日本について、現代でも議論される難しい問題ですが、現在の日本の発展へと繋がる重要な出来事であったことは間違いないでしょう。
広島県福山市にある「福山自動車時計博物館」には、本記事に登場した「ペリー」の蠟人形が展示されているので、ぜひ行ってみてください。