最悪の海域…「MDA10」で行われた命がけの「夜明け作戦」とは
水中設置型の爆弾「機雷(きらい)」や水中用ミサイル「魚雷」を回収・撤去する特殊部隊・アメリカ海軍掃海部隊が「最悪の海域」とよんだMAD10はご存知でしょうか。
イラク南東のペルシャ湾側に位置し、1990年8月〜1991年2月まで続いた湾岸戦争の最前線となった場所です。
詳しくみていきましょう。
湾岸戦争とイラクの事情
湾岸戦争は、イラク対アメリカ合衆国主導のもと結成された多国籍軍による戦争です。この戦争の発端には、中東(中東アジア)の経済背景が深く関わっていました。
中東の国々は、石油を輸出。そうして資金を獲得していたのですが、それぞれの国が石油を独自に輸出・販売すると安売り競争が加速して一向に利益が得られませんでした。
そこで、中東の国々は「OPEC(オペック)」という組織を設立し、石油を採る量と値段を統一したのです。
イラクは、約40年前のイラン・イラク戦争で隣国のクウェートから400億ドルを借りており、借金返済のためにお金を稼ぐ必要がありました。
しかし、当時のOPECが指定した石油価格は安価で採掘量も制限されており、大した利益にはなりません。
イラクの主導者はOPECに石油の値上げ交渉を行ったのですが、聞き入れられなかったといいます。
一方でサウジアラビア・アラブ首長国連邦・クウェートの3カ国は、OPECでの取り決めを無視して石油を大量輸出することでボロ儲け。
イラクがこのことを指摘するとサウジアラビアは謝罪して正当な取引を約束したのですが、ほか2カ国は無視を貫くどころか輸出を拡大し、隣国のクウェートにいたってはイラクとの国境にあるルマイラ油田から石油を大量に採掘し続けたのです。
終結後も残った戦争の代償
さまざまな鬱憤が積み重なり爆発したイラクは、1990年8月にクウェートへ侵攻し、たった数日で制圧してしまいます。
他国の反感や攻撃を恐れたイラクは、クウェートに滞在していた外国人を盾(捕虜)にして利用しました。
なかには日本人も含まれており、元プロレスラーとして一時代を築いたアントニオ猪木氏が参院議員時代に交渉に赴き無事解放されています。
アメリカ合衆国は、クウェートの解放を目的として国際連合安全保証理事会でアメリカ中心の多国籍軍を結成。
湾岸戦争を宣言したのです。当時の日本はすでに「憲法9条の戦争放棄」が存在したため、戦争には参加せずに多国籍軍側の資金を用意しました。
イラクは多国籍軍の上陸を警戒し、陸に地雷を海に機雷を設置。
イラク南東のペルシャ湾側にあるMAD10という海域にも多数の爆発物を設置しています。
アメリカ海軍は、MAD10を「最悪の海域」とよび警戒していたのだとか。
湾岸戦争終結後も地雷や機雷は数多く残されており、常に被害者が後を断ちません。
この戦争に参加したアメリカ海軍や日本の海上自衛隊は、1991年7月29日から水中の爆発物「機雷」や「魚雷」などの撤去活動(掃海:夜明け作戦)を開始。
同年8月19日にMAD10の掃海を終え、開始から99日目には周辺海域の撤去活動も完了させています。
戦争の代償は後世にも受け継がれ、いまなお被害者を出しているケースも少なくありません。
そのような犠牲者を最小限に抑えるため、海上自衛隊は世界中でたくさん活躍しています。
いつ爆散するかもわからない爆発物を命がけで撤去する、そんなヒーローたちの活躍を知りたい方は、広島県呉市にある「てつのくじら館」を訪れてみてくださいね。
□てつのくじら館(海上自衛隊呉資料館)
営業時間10:00~18:00 [最終入館17:30]
休館日火曜日(祝日の場合は翌日) 12月29日~1月3日
入館料無料
所在地〒737-0029 広島県呉市宝町5番32号
お問合せ0823-21-6111