【戦争の暗号から生活の暗号へ】漏れた日本外電と20世紀のスノーデン
「暗号」と聞いて、それが自分の生活に、どれだけ密接な関係があるか思い浮かべる人はどれだけいるだろうか。多くの人にとっては、暗号とは軍事や諜報といった、限られた世界での話に思えるかもしれない。だが、今あなたが読んでいるこの記事も、ヤフーのサーバーからあなたのスマホやパソコンまで、通信が暗号化された上で配信されている。
通販サイトでクレジットカード情報を入力する時、オンラインバンキングを利用する時、IDやパスワードを入力する時……様々な場面で、他人に漏れてはいけない重要な情報は暗号化され、守られている。暗号化は重要な情報だけではない。携帯電話の他愛のない会話であっても暗号化され、プライバシーが守られている。重要な情報からプライバシーの保護まで、暗号は欠かせない技術の一つとなっている。だが、その暗号は絶えず解読の危機に晒され続けていて、それには国家の思惑も見え隠れしている。
終戦の日も近い今回は、暗号を巡る国際社会の動きが、どう世界に影響を及ぼしたかを近代日本の暗号の歩みを中心に振り返ってみたい。
皇帝は知っていた?
日本と暗号といえば、太平洋戦争で日本の暗号がアメリカに解読され、それが戦況の不利に繋がったという話はよく知られている。ところが、太平洋戦争以前の日露戦争でも、日本の暗号は解読されていたというエピソードが古くから伝わってる。
日露戦争直前の1904年2月4日、日本から6日にロシアへ国交断絶を通告せよとの電文を受け取った栗野慎一郎駐ロ公使だったが、翌5日晩に劇場に招待されていた。国交断絶のことを隠し、何食わぬ顔をして劇場に出向いた栗野公使だったが、ロシア皇帝はまるで別れが迫っている事を知っているような語調で、いつになく馴れ馴れしく話かけてくる。それを栗野が訝しんでいると、横合いからフランス大使が「いよいよおしまいですな」と語りかけた。
栗野公使はこれまでのロシア要人との外交交渉から、日本の暗号が解読されているのではと怪しんでいたが、このロシア皇帝とフランス大使の発言でそれが確信に至ったという。
このエピソードは、ロシアとその同盟国フランスが、日本の電文を傍受・解読しており、日本がロシアと国交断絶をする事を既に把握していた事の説明に使われる。これは、明治・大正時代の外交官だった小松緑が、1927年に出版した『明治史実外交秘話』の中で、栗野公使の回想を本人から聞いた話として載せている。
この本は歴史小説家の種本としても知られているが、小松が見聞きした話を読み物にしたもので、記述をそのまま信用するには信憑性に欠けるところがある。このエピソードを取っても、実際に国交断絶の決定が日本から栗野公使に送られたのは2月4日ではなく5日のことで、5日晩に皇帝やフランス大使との間でこのやりとりがあったかは疑わしい。仮に本当だとしても、栗野公使がそう感じただけで、ロシアが日本の暗号を解読していたという直接の証拠は無かった。
ところが、ソ連崩壊後の1992年。東洋英和女学院大学短大部の稲葉千晴助教授(当時)が、モスクワのロシア国立文書館に収蔵された帝政時代のロシア警察庁文書の中に、日本の暗号電文とそれを解読した文書の双方があることを発見した。その多くがパリから発信されたか、パリに送信されたもので、フランスが傍受・解読したものがロシアに渡っていたことが明らかにされた。さらに2004年、日露戦争開戦前の外交電文をロシアが解読した報告書も稲葉助教授により発見され、開戦前に日本の外交電文の暗号が破られていたことが判明している。その一方、同盟国イギリスが解読したロシア海軍の電文情報を日本は受け取っており、100年以上前の暗号を巡る戦いでも、戦争当事国以外も巻き込んだ国際的なものとなっていたことが窺える。
ポーランドとの暗号協力
1922年初夏、シベリア出兵における日本軍の撤兵について、日本とソ連代表の協議が大連で開かれたが、交渉は決裂した。ソ連代表が引き上げた後のホテルの部屋から紙くずが回収され、そこからソ連の暗号電文が発見された。日本陸軍はこれを解読しようと試みたが、その解読は一向に進まなかった。
日本独自の暗号解読が行き詰る中、ポーランド駐在武官から「ポーランド参謀本部は暗号解読技能の優秀な将校を有しているから、大連会議関係のソ連暗号電文の資料を送ってよこさないか」と紹介が来たため、電文のコピーを送り、ポーランド参謀本部に研究を依頼したところ、資料到着後約1週間で全電文を解読したと報告された。
これを受け陸軍参謀本部が調査すると、ポーランドは1918年に独立を回復したばかりだったが、ポーランド・ソ連戦争(1919年〜1921年)でソ連の暗号を解読し、戦況を有利に進め休戦に導くなど、高度な暗号技術を有することが分かった。実際、第二次大戦中にドイツが使っていた有名なエニグマ暗号も、ポーランドが解読の端緒を付けており、ドイツのポーランド侵攻後もポーランド人技術者がイギリスで解読を続けるなど、暗号技術で進んでいた。(下は第二次大戦中にイギリスで暗号解読を行っていたブレッチリーパーク(現在は博物館)の公式アカウントによる、ポーランドの暗号解読機ボンバの展示の説明)
陸軍参謀本部は、ポーランドに暗号技術者招聘を要請し、それに応じてヤン・コワレフスキー大尉が来日し、参謀本部内でソ連暗号の解読を中心に、ヨーロッパの暗号理論について講義を行った。この講義は後に『暗号解読の参考』という冊子にまとめられ、これが後の日本の暗号教育の基礎となるとともに、陸軍が日本の暗号政策で主導力を発揮するようになったという。
これ以降、日本からは暗号解読要員がポーランドに1年間研修に赴くようになるなど、日本とポーランドは対ソ連軍事交流を活発化させることになった。この日ポ接近による成果は、思わぬところで第三国による評価が明らかになる。
20世紀のスノーデン?
1921年から22年にかけて開催されたワシントン海軍軍縮会議では、日本が主張していたアメリカ比7割の主力艦保有は認められず、最終的に6割に決まった。ところが、ワシントン軍縮会議での日本代表団の暗号電文がアメリカに解読され、日本の譲歩を予見して交渉していたことが1931年に明らかになり、論壇を巻き込む大騒動に発展した。
この暴露を行ったのが、暗号解読をした“ブラック・チェンバー”の責任者だったハーバート・ヤードレーで、1929年に国務省の予算打ち切りでブラック・チェンバーが閉鎖された事に対する報復として、ブラック・チェンバーの活動を暴露した『アメリカン・ブラック・チェンバー』を発表した。実際に通信情報の傍受に携わった職員の暴露としては、近年のエドワード・スノーデンによる暴露の20世紀版と言えるかもしれない。
ヤードレーによる暴露の中で、日本が「ポーランド人の暗号専門家」を雇って以降、日本大使館付陸軍武官の暗号が、日本のどの部門の暗号より難解になったと記している。はからずも、ポーランドとの協力の成果が、第三国視点で確認できたことになる。もっとも、ヤードレーは、日本の暗号は理論的に進歩したが、実際上は最初の暗号よりかえって解読が容易になったとも記しており、まだ日本の暗号に問題があった事も分かる。
なお、この暴露のきっかけとなる予算打ち切りを行ったヘンリー・スティムソン国務長官は、ブラック・チェンバーが他国の暗号を解読していることを知り、「紳士は互いの書簡を読んだりはしない」と打ち切ったという。しかし、皮肉なことに第二次大戦時に陸軍長官に就任したスティムソンは、この頃には暗号解読を容認するようになっていたという。
後編に続く。
【参考文献】
「日露戦争開戦の暗号解読…ほったらかし ロシア、奇襲許す【大阪】」朝日新聞大阪版朝刊,2004年2月10日.
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B07090546900, 日露戦役ノ際在露帝国公館撤退及帝国臣民引揚並米国政府保護一件 第三巻(5-2-1-0-14_003)(外務省外交史料館).
稲葉千晴「日露戦争中の露仏諜報協力 −対日情報収集をめぐって−」『外交時報』外交時報社,1997年.
稲葉千晴「日露戦争中の日本の暗号」『都市情報学研究』名城大学都市情報学部,2011年.
エヴァ・ルトコフスカ「日露戦争が20世紀前半の日波関係に与えたインパクトについて」『平成16年度戦争史研究国際フォーラム報告書』防衛研究所. http://www.nids.mod.go.jp/event/forum/j2004.html
大久保俊次郎「対露暗号解読に関する創始並びに戦訓等に関する資料」防衛研究所図書館所蔵.
小谷賢『インテリジェンスの世界史』岩波書店,2015年.
小松緑『明治外交秘話』原書房,1966年.
この記事は筆者とYahoo!ニュースとの共同企画による記事です。平成最後の終戦記念日を迎えるにあたり、現代のインターネット技術に通じる「暗号」をテーマに、戦前~戦後を振り返ります。記事は14日と15日に各1本公開します。