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ウェブライターは何者かになれるのか

朽木誠一郎記者・編集者
旧型のICレコーダーを買い換えようか迷っている

少し前に、立て続けに何本かの取材をして、そう思った。

「いつもやることが10年早いって、仲間によく怒られます」 【法政大学メディア社会学科准教授 藤代 裕之さん】

藤代氏は今のようにウェブメディアが話題になる10年前に、すでに新聞記者からウェブメディア編集者に転身、現在は法政大学の准教授として教鞭をとっている。昨今の紙媒体からウェブへの人材の流れを見通し、さらにその一歩先を進んでいると言えるが、藤代氏はなぜ、伝統ある新聞という紙媒体を離れたのか。

出来上がったばかりのインターネットの言論空間で感じた空気と、100年の伝統を持つ新聞社の中で感じた伝統とは、いつか絶対にぶつかると思いました。今でこそ、新聞の記事があれこれネットで批判されることがありますが、私は当時、いずれそういうことは起こると思っていた。そのときにこっち(新聞)側にいていいのか、もっと新しいジャーナリズムに身を置くべきなんじゃないかと思って、次を決めずにサクッと辞めちゃったんです。

出典:「いつもやることが10年早いって、仲間によく怒られます」 【法政大学メディア社会学科准教授 藤代 裕之さん】

最近では、海外メディアの雄『BuzzFeed』日本版の編集長に、朝日新聞出身の古田大輔氏が就任したことが話題になっている。紙媒体からウェブメディアへの人材の流れは、この先も加速していくだろう。

しかし、移動しているのは人材だけではない。制作されるコンテンツ自体も、デジタル化の流れがここ数年で目につくようになってきた。

月額400円で雑誌読み放題! 「dマガジン」急成長の裏側

dマガジンは紙の雑誌をデジタル化し、月額400円のサブスクリプション形式で、スマートフォンやタブレット向けに配信するサービスだ。店頭での販促活動には批判もあるが、ここでは縮小しつつある市場において、アーカイブ(ロングテール)を含めたマネタイズに取り組む事例として紹介したい。

「紙版を休刊した『週刊アスキー』のように、質の高いコンテンツが今後もインターネットに移行していくでしょう。また、キュレーションで集客し、コンテンツで課金にシフトするネット発のメディアもあります。紙媒体とネット媒体という二項対立がなくなり、コンテンツの質で勝負するようになるのではないでしょうか」

出典:月額400円で雑誌読み放題! 「dマガジン」急成長の裏側

紙の人材、そしてコンテンツは、やがてウェブへと軸足を移行するだろう。そのとき、ウェブメディアはどうなるのか。ライターという職業は。

紙とウェブの区別がなくなれば、メディアの自然淘汰がはじまる

もちろん、すぐに紙媒体がなくなるとは思えないし、一部にはウェブメディアから紙媒体への流れも生まれつつある。僕自身、ウェブライターとしてキャリアをスタートしたが、現在は逆輸入的に雑誌の執筆をしたり、書籍の企画制作をしたりもしている。

しかし、今となっては誰も、Suicaがなかった時代を思い出すことはできない。時折切符を購入することもあるが、それは必要に応じてのことだ。紙媒体もまた、インターネットやスマートフォンなどにより加速した時代の流れの中で、別の何かに置き換わっていくことは想像に難くない。それはもしかしたら、ウェブですらないのかもしれないが。

プラットフォーム、コンテンツ制作者を問わず、ウェブ側でも一部のトップランナーたちはとっくに、マスメディアがインターネットを活用し始める未来に備えているように思う。広義のメディアにはなるが、最近ではLINE株式会社が『LINE LIVE』を発表して大きな話題になった。

「LINE LIVE」、サービス開始から5日間で総視聴者数1000万人を突破

芸能人の生放送番組も展開されるこのサービスでは、今後一般ユーザーによる配信機能も提供される。テレビのようなマスメディアと個人発信が融合したサービスが、インターネットサービス事業者側のアプローチにより実現していることは、インターネットの恩恵に与る立場として小気味いい。しかし同時に、これから力のない事業者が自然淘汰されはじめるのかもしれないと思う。

テキストベースのメディアであっても、紙もウェブもなく、コンテンツの質で取捨選択されるようになれば、生存競争にさらされるのは明白だ。しかし、このままでは不利になるのはおそらくはウェブメディアだろう。

ウェブメディアは社会的責任への「言い訳」をしてはいないか

それは、メディアには遵守するべき社会的規範や責任があると意識していなければ、簡単に足元をすくわれかねないと思うからだ。ウェブメディアは、これまで新興勢力として、ある意味では守られていた。もちろんウェブにはウェブの文脈があり、それは文化として守られるべきだ。しかし、ウェブが発展し普及した世の中においては、やはり社会との関わりは免れ得ない。

これまでウェブメディアのクオリティが批判されることは何度もあったが、その都度ウェブにおけるマーケティングの利点でもある「効果測定性」「ローコスト」などを理由に、社会に対して影響力を持つ責任から逃れ続けてきたのではないか。たとえば、広告効果を高くするために、広告主から金銭を受け取ったにも関わらず、PR表記をつけないステルスマーケティングが問題となったことは記憶に新しい。

また、ローコストであることが裏目に出て、他人の著作物を盗用するバイラルメディアの問題も発生した。何かしらのイノベーションは既存のシステムをハックすることで生み出されるかもしれないが、ルールに違反すれば社会における存在意義を問われ、また市場原理が働く世界において、質の低いプロダクトに居場所はなくなる。

コンテンツを消費する側の可処分時間には限りがある。そして、ウェブに実力あるプレイヤーが新規参入し、参入元の業界がそもそも縮小しているという事情から考えても、奪い合うパイの大きさはそう変化しないように思う。このような状況下において、ウェブでもたとえば、娯楽ならテレビ、調査報道なら新聞など、ノウハウと資本を持つ事業者が既存の事業者とぶつかり合うようになるのかもしれない。

メディア定点調査(2015年版)

そうなると、前述したように「ウェブメディアだから」という言い訳によって真っ当な運営体制の構築やクオリティ向上の対策をしてこなかったウェブメディア、そしてそのライターは窮地に立たされる。そこで「ウェブライターは何者かになれるだろうか」と思ったのだ。

数字を優先すると、メディアやライターが使い捨てにされる

メディアが社会的な責任を果たし、ライターが質の高い仕事をするためには、メディア事業の継続性は必要不可欠だ。コンテンツの置き場所の区別が曖昧になる中で、すでにバイラルメディアは軒並み閉鎖され、更新が止まるオウンドメディアも散見されるようになった。メディア事業を継続できなくなった途端、あっさりライターを切り捨てる様子をすでに何度か見かけている。

数年前、ウェブライターからキャリアをスタートし、最近までウェブメディアを運営していた人間として、このような現状には忸怩たる思いがある。どうしてウェブメディアはライターを大事にしないのか。あるいは、できないのか。

ライター、そしてウェブメディア自体が使い捨てのようにされる背景には、事業者がメディア運営のノウハウがないまま、効果測定性が高くローコストなウェブメディアをはじめて、結局、想定していたほどの効果が得られずに撤退する、という構図がある。

コンビニみたいなオウンドメディア

僕などが言うのはおこがましいが、真っ当なメディアは一朝一夕で出来上がるようなものではない。ウェブメディアの収益性ひとつをとっても、1PVあたりGoogle AdSenseでおよそ0.2〜0.3円。100万PVでも20万〜30万円だ。記事広告などでさらにマネタイズをして、1PVあたり0.5円ほどになればまずまずだろう。ここまでやって、ようやく売り上げが50万円になる。真っ当にするほど、メディアは儲からない。

もちろん、もっと成功しているメディアはたくさんある。そこでは優秀な編集者やライターが活躍しているのは言うまでもない。問題は、優良なコンテンツを制作するそのノウハウが、一握りの成功事例の背後でたくさんのコンテンツを量産する、無数の名前のないライターには共有されていないことだ。

ウェブライターのリテラシーと文章力は低いのか

メディア事業が継続しなければ、そのノウハウがライターにもたらされるべくもない。編集者として仕事をしていて、ウェブライターのリテラシーの低さをよく耳にするようになった。たとえば取材許可をとらずに飲食店で撮影をして記事に掲載し、飲食店からの指摘でそれが発覚したケースがある。また、未だにウェブライターの文章力が低いとも言われる。

自戒を込めて言えば、確かにリテラシーや文章力の低いウェブライターもいるだろう。理由ははっきりしている。教育がなされていないからだ。前提として自助努力、そしてある程度のセンスが絶対に必要になるのはもちろんだが、メディア側がしっかり企画と編集をして、ライターを教育するという姿勢でなければ、リテラシーも文章力も向上するべくもない。

知らないことはわかりようがない。「たり」は一文中に二回以上使用するルールがあることも、公園で企画の撮影をするには許可が必要な場合があることも、他人の著作物をパクってはいけないことも、こっそりお金を貰った記事をそしらぬ体で配信してはいけないことも、「知らなかった」で済まされないのに、悲しいかな、知らなければわからない。わからないうちは、無数の名前のないライターから脱却できない。

なぜWebライターの文章が下手か?そりゃ本当のプロがいないからだよ

だから、メディア側にお願いしたいのは、社会に対して責任を負う覚悟がないままメディアの運営をはじめないことであり、はじめた以上は、その責任を最後まで全うしてほしいということだ。そして、あくまで個人的にだが、ライターの教育もまた、メディア側の責任であると思う。自社にノウハウがないのであれば、ノウハウがあるところから借り受けるか、ノウハウが蓄積されるまで運営を継続するしかない。

ライターを育成するというのはメディアの生存戦略なのではないかと思う。多様性は進化のキーワードであり、それを許容できる個体が選択されてきた。そして、紙媒体をはじめとするマスメディアとウェブメディアの区別がなくなっていることは、本当は規模によらず社会に影響を及ぼすことができるということを意味している。ライターもまた、その可能性をもう一度認識し直してみるのがいいのではないだろうか。

20年後もライターでいるために

ポジショニングでも、ブランディングでも同じことだが、存在を確立するというのはなかなか難しい。メディアがなくなれば、そこに所属するライターもまた自然淘汰される。ライターが増えれば増えるほど、仕事はわかりやすい場所に来るためだ。コンテンツを世に出しても埋もれてしまう現状においては、たとえ次第に執筆する場所がなくなるジリ貧の状態であっても、その仕事をはじめた自己責任論に終始してしまう。

「何者か」になる必要などないと思われたかもしれないが、何者かにならないとずっとこの仕事をし続けるのは難しい。そんな現実がある。何者かとは書き手として業界や世の中にその能力や個性が認知されている存在のことで、そうなるには仕事で結果を残すしかない。参入障壁は低いが、出口はボトルネック。このように閉じた系では、ポンプのように人材を送り出すシステムが必要だ。それが教育だと僕は思う。

前述したように、メディアは決して短期で数字を生み出すようなシステムではない。ただでさえ限られたリソースを、教育に割けないという事情はわかる。しかし、何者かを輩出できなければ、結局そのメディアも競争に敗れ、淘汰されてしまうのである。将来への投資として、優良なコンテンツを制作しようとすることを通して、ライターへの教育を心掛けるべきではないか。

最後になるが、僕は約半年前にとあるウェブメディアの運営責任者を辞任し、その後、尊敬する先輩編集者の編集プロダクションに入社した。関わるメディアのレベルが高くなったことにより、レベルが低いと自分のレベルが低いことにも気が付けないことを、毎日のように思い知らされながらも、先輩方のノウハウにより自分がゆっくりと成長しているのを実感する。僕は今、はじめて教育されている。

ライターという仕事が好きだ。自分の頭の中にある言葉を書き連ねることで、それが価値を生み出すシステムは、単純に、すごいことだと思う。だからこそ、僕は20年後もライターでいたい。そのためには、真っ当に、実直にコンテンツ制作を継続するしかないのだろう。他人任せにならず、自分も編集者としてはライターを教育しながら、いつか結果として何者かになっていられればいい。

記者・編集者

朝日新聞記者、同withnews副編集長。ネットと医療、ヘルスケア、子育て関連のニュースを発信します。群馬大学医学部医学科卒。近著『医療記者の40kgダイエット』発売中。雑誌『Mac Fan』で「医療とApple」連載中。

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