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善意あふれる世をあざ笑う悪意。映画『Speak No Evil』

木村浩嗣在スペイン・ジャーナリスト
社会は善意で回っている。が、悪は必ずその隙を狙っている

みなさん、「悪意」と「善意」どっちが強いと思いますか?

善意に勝ってほしいと誰でも願いますよね。でも、それは願望です。実際には「悪意の方が強い」と私は思う。

なぜなら、善意の人は戦うことができないから。

悪意の人のナイフに対して、愛とか寛容とかの対抗策しか持たない。善意の辞書にナイフという文字はない。よって、両腕を広げて抱擁しようとして、無防備な胸をグサッと刺されて終わりだ、と私は思います。

『Speak No Evil』の1シーン
『Speak No Evil』の1シーン

それに、善意は悪意の中にすら善意を見ようとする。なので、こっちが無抵抗ならナイフを突き立てるのを躊躇するはずだ、と期待する。戦いの場ではそれは油断でしかないので、より勝ち目がなくなるわけです――。

というようなことを言う私も、善意で接すれば善意が返ってくるはずだ、と信じて行動しています。

だって、善意というのは文明社会の証だから。

■悪に対し弱体化する社会

善が悪に敗れる映画を見ると胸糞が悪くなるのは、勧善懲悪が良いもの、あるべきものだと思っているからです。

私たちはそう教育されてきたし、それは正しいと思う。

だけど、同時に思う。

『Speak No Evil』の1シーン
『Speak No Evil』の1シーン

善人が増えた今の社会で、悪人はやりやすくなっているのではないか、と。

警戒心を抱かずに胸を差し出す人ばかりで、ナイフを突き立てやすくなっているのではないか。

良き人たちが増えたことで「悪意」と「善意」の強弱の差がさらに広がって、相対的に悪意の強度が増しているのではないか、と。

もちろん、善意によって毒を薄められた悪もあるでしょうが、びくともしない悪もある。毎日のニュースを見ていても、矯正不能なある種の悪の存在を感じます。

そういう「悪の中の悪」というか、「絶対悪」というものには、現代の毒抜きされた私たちはもう絶対に敵わない――。

それが映画『Speak No Evil』を見ればわかります。

『Speak No Evil』の1シーン
『Speak No Evil』の1シーン

Speak No Evilとは「悪口を言わない」という意味。悪口を言わないよう教育されてきた私たちは一方的な悪口の前に無力であり、この作品は私たち善人の心に遠慮なく躊躇なくナイフを突き立ててきます。

勧善懲悪の物語は正しくとも、ありきたりで退屈ですから、その意味でもお勧めの作品です。

■悪意を描く善意の監督

監督はクリスチャン・タフドルップ。悪意について描いていますが、「気を付けて! 世の中には鬼がいる!」と警告してくれるのですから、監督にはむしろ善意を感じます。

そもそも、露悪的な人には善人が多い。勧善懲悪のお話を垂れ流している連中よりも、よほど好感が持てます。

『Speak No Evil』の1シーン
『Speak No Evil』の1シーン

作り方も親切です。

楽しいシーンでも、不気味な音楽と不自然なカメラアングルを使って、非常にわかりやすい“死亡フラグ”を立ててくれます。

何か悪いことが起こりそうなわけです。登場人物たちはわかりませんが、見ている私たちには音と映像がそう警告してくれます。

なので、そこにはサプライズはない。

わからないのは、どこまでの悪意なのか、ということです。

ギリギリ善意のラインをキープしながら、お話は少しずつ、しかし着実に落ちて行く。お話に説得力があり、進め方が上手だから、フラグを立てつつも、ラストにサプライズがちゃんと用意されています。

悪の存在を認識しつつも善意の人である私は、ずい分苦しませてもらいました。

『Speak No Evil』、おススメです。

※写真提供はシッチェス映画祭

ポスター
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在スペイン・ジャーナリスト

編集者、コピーライターを経て94年からスペインへ。98年、99年と同国サッカー連盟のコーチライセンスを取得し少年チームを指導。2006年に帰国し『footballista フットボリスタ』編集長に就任。08年からスペイン・セビージャに拠点を移し特派員兼編集長に。15年7月編集長を辞しスペインサッカーを追いつつ、セビージャ市王者となった少年チームを率いる。サラマンカ大学映像コミュニケーション学部に聴講生として5年間在籍。趣味は映画(スペイン映画数百本鑑賞済み)、踊り(セビジャーナス)、おしゃべり、料理を通して人と深くつき合うこと。スペインのシッチェス映画祭とサン・セバスティアン映画祭を毎年取材

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