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【深読み「鎌倉殿の13人」】怒涛の快進撃! 誰にも止められなかった源義経の進軍

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源義経の平家追討は凄まじいものだった。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第16回では、源義経が平家追討の出陣をした。その後、義経がどのようなルートで進撃し、一ノ谷に向かったのか、その点を詳しく掘り下げてみよう。

■京都を出発した源義経

 寿永3年(1184)1月、木曽義仲を追討した源義経は、10日も経たないうちに平家追討の軍勢を率い、京都を出発した。平家は、摂津一ノ谷(兵庫県神戸市)に陣営を構えていた。

 朝廷では、和平を優先して安徳天皇と三種の神器の帰還を優先させるか、平家追討を頼朝に命じるか逡巡したが、ついに平家追討に舵を切った。頼朝に対して、平家追討の宣旨を与えたのは、その証左である。

 義経と範頼はあくまで頼朝の代官に過ぎず、一つ一つ頼朝の指示を仰がねばならなかった。しかし、すぐさま平家追討の途についたのは、あらかじめ頼朝から指示を受けていた可能性があろう。

 義経が率いる軍勢は丹波から進軍し、搦手から一ノ谷に攻め込み、範頼が率いる軍勢は西国街道から進軍し、大手から一ノ谷に攻め込む計画だった。二方向から平家を挟撃する作戦だ。

 義経の軍勢は約2万、範頼の軍勢は約5万6千といわれているが(『吾妻鏡』)、これは誇張がすぎるといわれている。源氏の総勢は2千~3千、平家の総勢は約2万という説もある(『玉葉』)。いずれが正しいかは判然としないが、1万を超える人数は多すぎる。

■迎え撃つ平家

 平家は和平案が消滅したので、意気消沈だったに違いない。とはいえ、ただちに義経らの軍勢に対処すべく、防御態勢を整えなくてはならなかった。

 まず、平家は生田の森付近に城戸口を設け、平知盛、重衡兄弟を置いて守らせた。次に、明石・塩屋方面の一ノ谷にも城戸口を設け、平忠度を総大将に任じて守らせた。

 播磨三木から摂津福原の山の手ルートには、平通盛、教経兄弟に守備を任せた。丹波方面に通じる播磨三草山には、平資盛、有盛、師盛らが率いる7千余の軍勢が着陣し、義経らに備えたのである。

■三草山の戦い

 寿永3年(1184)2月5日、早くも義経の率いる軍勢は、平資盛、有盛、師盛らが陣を構える三草山に近づいていた。三草山は丹波から播磨、摂津に通じる交通の要衝であり、西国に基盤を置く平家には地の利があった。

 義経は土肥実平に対して、戦いを明日にすべきか、それとも夜討ちを仕掛けるべきか相談した。すると、田代信綱なる者が、明日になると平家の軍勢が増す可能性があるので(平家の援軍の到来)、数的に有利な今こそ夜討ちを仕掛けるべきと提案した。

 義経は夜討ちを採用し、放火しながら三草山の平家軍に進撃した。平家は義経の夜討ちを想定していなかったので、すっかり安心して休憩していた。そこへ義経軍が急襲したので、たちまち敗走したのである。

■むすび

 平家は鉄壁な守備を行ったかのように見えたが、三草山の戦いではあっけなく敗北を喫した。都落ちした時点で、勢いを失った平家は敗勢が濃く、途中で逃走した兵卒もいたに違いない。

 三草山の敗北によって、ますます平家の威勢は衰える一方だった。このあと、一ノ谷の戦いに突入したのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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