【光る君へ】源倫子と藤原道長が結ばれた事情。2人の結婚は正解だったのだろうか?
今回の大河ドラマ「光る君へ」は、東京都知事選の速報で中止になった。そこで、ドラマの前半部分で、注目された場面を取り上げて、詳しく解説することにしよう。取り上げるのは、源倫子と藤原道長が結ばれた事情についてである。
源倫子が源雅信の娘として誕生したのは、康保元年(964)のことである。貞元3年(978)、関白の藤原頼忠が太政大臣に任じられると、雅信は左大臣に昇進し、兼家(道長の父)が右大臣に任じられた
円融天皇は頼忠、兼家よりも、雅信を信頼していた。花山天皇が即位すると、外戚の藤原義懐が登用されたが、まだ雅信も重用されていた。寛和2年(986)に花山天皇が退位すると、一条天皇が即位した。
ちょうどその頃、倫子に縁談話が持ち上がった。当初、雅信は倫子を天皇の后候補に考えていたという。倫子に男子が誕生し、のちに天皇になれば、外戚として確固たる地位を得られるからだろう。
ところで、兼家の五男の道長は、将来性が未知数だった。しかし、ライバルと目される兼家と連携することは、雅信にとって決して悪い選択ではないので、別に天皇にこだわらなくてもいいような気がしないわけでもない。
この頃、花山天皇が退位したばかりで、即位した一条天皇はまだ幼く、いずれにしても入内が困難な時期だった。タイミングが非常に悪かったので、雅信は非常に悩ましかったに違いない。
決め手となったのは、倫子の母・穆子の強い勧めだったといわれている。先述のとおり、雅信も兼家も朝廷の中心にあったので、倫子と道長の結婚は大いにメリットがあったと考えられる。
こうして、倫子と道長が結ばれたのは、永延元年(987)のことである。雅信は大変な財産を持っていたので、これは道長にとって幸運だったといえるだろう。2人は、非常に仲睦まじかったという。
雅信は兼家とライバル関係だった時期もあったが、道長を倫子の夫にすることに異論はなかったに違いない。ともに名門の家柄の出身であり、申し分のない縁談話だったと考えられる。
結論をいえば、2人の結婚は大正解だった。倫子は道長との間に多くの子(頼通など)をもうけ、子らはその後の藤原氏の全盛期を謳歌したのである。