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センバツ回顧⑤ 2003年。成瀬と涌井のいた横浜×明徳義塾、あの大逆転以来の再戦

楊順行スポーツライター
涌井(写真)も成瀬も、のちに日本代表入りした(写真:アフロスポーツ)

「いやぁ、ピッチャーが代わってくれてラッキーと思ったんよ。データもなにもないけど、出てきたのは下級生でしたから。だけど……投球練習の7球を見て、ああ、これは渡辺さんも代えるはずやと思ったね」

 2003年センバツの2回戦・横浜(神奈川)と明徳義塾(高知)の一戦は、1998年夏の準決勝の再戦となった。そのときは、前日にPL学園(南大阪)との延長17回を完投した松坂大輔(現西武)が先発を回避し、明徳が8回裏まで6点の大量リード。勝負は決まりかけた……と見えたが、横浜は8回に4点、9回に3点を奪って劇的な逆転サヨナラ勝ちをしている。明徳はその悔しさを胸に刻み、02年夏の甲子園では悲願の全国制覇を遂げた。5年ぶりの再戦は、明徳・馬淵史郎監督にとって、借りを返すいい機会だった。

 試合はやはり、終盤に動く。明徳が2対1とリードした8回表、横浜が3点を奪って逆転すれば、その裏明徳も2得点で追いつく。同点のまま、明徳9回裏の攻撃に、横浜・渡辺元智監督(肩書きなどは当時。以下同)の決断は投手交代。3年生の成瀬善久(元オリックスなど)から、2年生・涌井秀章(現楽天)へのリレーだった。これを馬淵監督は「ラッキー」と思ったわけだ。

これはラッキー、のはずが

「成瀬は左手が招き猫みたいな(笑)投げ方でね、なかなかボールが見えてこない。スピードはさほど感じなくても、とにかく低めに丁寧に放ってくるし、シュート回転とか抜けてくるタマがないんです。実際試合になると、球威は130キロそこそこなんやけど、とにかく高めに浮いてこない。それとスクリューなのか、ヒザの高さから落ちてくるタマがあって、ランナーが出ても引っかけさせられる。けん制やクイックも洗練されていて、いいピッチャーだなと思いましたね」

 その成瀬の交代だから、勝機ありと身を乗り出しても不思議じゃない。だが、マウンドの涌井の投球練習を見てゾッとした。タマが速いだけじゃなく重い、少なくとも2〜3イニングは打てんじゃろう、計算ずくの継投か……? 実際に明徳は、9回から延長にもつれた11回に、ようやく涌井から初安打。4点を勝ち越された12回裏には、2死からなんとか満塁まで攻め立てるが、最後は四番打者が詰まらされた。結局このセンバツで横浜は、成瀬・涌井の2枚看板で準優勝までたどり着いた。

 それにしても、のちにプロでタイトルを獲得するような投手が2人、同時に在籍した高校は、過去にあっただろうか。横浜・渡辺監督によると、

「成瀬は入ってきたとき、栃木弁丸出しの木訥な男で、横浜の野球がカルチャーショックだったんじゃないかなあ。おまけに分厚いメガネをかけていて、“危ないから”とコンタクトに変えさせ、“おお、イケメンじゃないか”とおだてたりしてその気にさせた。そこから、鬼軍曹(小倉清一郎部長)と私でつくりあげていった」

 球威は大したことない。だから小倉コーチが目ざしたのは、130キロそこそこのストレートでプロ通算176勝をあげた星野伸之(元オリックスなど)のフォーム。小さなテイクバックと、投げる直前までボールを打者から隠すことで、相対的な体感スピードを上げるものだ。

「タオルを左脇の下にはさんだり、プレートのすぐ後方にネットを置いて、それに手が当たらないように投げさせたり……速いタマを投げようとすると、どうしても後ろが大きくなるから、それを矯正するためでした」(渡辺監督)

 その結実が、左手首を極端に曲げる“招き猫”投法というわけだ。また、低めへの制球を向上させるには、本塁の角に置いたボールを目がけて投げる練習を採り入れた。在学中の松坂も取り組んだ方法で、この練習が効果的だったのは、03年のセンバツで38回を投げ、四死球わずか4という数字が物語る。

 一方、1学年下の涌井について小倉コーチは、「03年のセンバツ時点では、ホンモノじゃなかったね」と振り返った。「細いし、足が長く、重心が高い……とにかくひ弱だったから、びしびし走らせました。松坂のときも、周囲には“壊れるんじゃないか”というほど鍛えたけど、涌井に関してはそれ以上。ほかのピッチャーなら脱落しそうなメニューだけど、歯を食いしばって取り組んでいたね」

 その「ホンモノじゃない」03年センバツの時点でも、敵将・馬淵監督が「球威もそうだし、コントロールもいい。スライダーは消える。間違いなくプロだな」と思ったほどだから、本ものになったらどれだけすごいか。

クールなハートに火をつけて

 いまでも、嫌われているかもなぁ……と苦笑いしたのは、渡辺監督だ。入学時から、“松坂二世”と評判だった涌井。1年秋の関東大会で、ベンチに入れた。だが、初戦当日。涌井のスパイクには、歯が装着されていなかった。渡辺監督の、超弩級の雷が落ちる。

「もちろん、いきなり試合で投げさせるつもりはないが、選手というものはなにが起きてもいいように準備をしておくべきだろう、と。ましてや“プロが目標”と口にするのなら、そのくらいの気構えがなくてどうする……近年では、一番激しく怒ったかもしれません。まあ当時から、考え方の読めないクールな男だった」

 だが、これでクールなハートにも火がついたのか。その関東大会の涌井は、連投のききにくい成瀬に代わって先発した浦和学院(埼玉)との決勝で……むろん、スパイクに歯はついている……8回途中まで1失点。優勝に、大きく貢献した。

 成瀬と涌井。この、1学年違いのライバルは、指導者から見てもウマが合わないようだった。成瀬の2学年上の主将だった平田徹部長によると、「すごく純な子。大丈夫かな、これで続くのかな」という印象だった成瀬に対し、「表情を変えず、クールで、あまりしゃべらない」(渡辺監督)涌井。性格が合わないのがなおさら、負けたくないという切磋琢磨につながったのかもしれない。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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