ジャパンCにおける2人の名手の壮絶な叩き合い。その裏にあったドラマとは……
1頭の最強馬をめぐる2人のジョッキーの物語
現在では日本馬が上位を独占することも当たり前となり、外国馬の出る幕がなくなった感のあるジャパンカップ。しかし、創設当初はまるで様相が違った。
1981年、第1回が行われたジャパンC。当初は日本のトップホース達が、地元では大きなタイトルもない外国からの招待馬達にコロッとひねられた。あまりのレベルの違いに唖然としたことを覚えている。
その後、第4回となった84年にはカツラギエースが逃げ切り、翌85年には当時日本競馬史上最強と言われたシンボリルドルフが優勝。日本でやる限り日本馬でもなんとかなるところは見せたが、それでも外国馬の強い時代がまだ続いていたことに違いはなかった。
そんな1986年のことだ。
競馬の本場イギリスでは、1頭のスターホースの誕生に沸いていた。
ダンシングブレーヴだ。
同馬は皐月賞にあたる2000ギニーを勝利すると、ダービーでも圧倒的1番人気に推された。
しかし、グレヴィル・スターキーを背に後方から進むと、最後の直線で鞍上がバランスを崩すシーンもあり万事休す。ラスト1ハロンは10秒台といわれる豪脚で追い込んだものの、早目先頭から粘り込みを図ったシャーラスタニを半馬身捉えることができなかった。脚を余して2着に敗れたことで、当然、鞍上のスターキーには非難が殺到した。
それでも続くエクリプスSでは名誉挽回の勝利を果たしたものの、さらに続くキングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドSでは再度シャーラスタニと対戦。主戦のスターキーが怪我をしていたこともあり、パット・エデリーに乗り替わりとなった。
結果、ダンシングブレーヴは楽に優勝。シャーラスタニに雪辱を果たすと、その後、G3のセレクトSこそ再びスターキーが手綱をとって勝利したが、続く凱旋門賞ではまたもやエデリーに乗り替わり。豪脚を繰り出してヨーロッパ最大のこのレースをも制してみせた。
同じ年のジャパンC、400メートルにわたる叩き合いを演じたのは……
その凱旋門賞から1カ月半後の11月23日、この年のジャパンCは行われた。
1番人気は秋の天皇賞の勝ち馬サクラユタカオー。他にも前年の2冠馬ミホシンザンらが日本の大将格として出走していたが、彼等を突き放して優勝争いを演じたのはイギリスから来た外国馬2頭だった。
1頭はジュピターアイランドでもう1頭はアレミロード。
2頭はラスト400メートルにわたって馬体をぶつけ合いながら叩き合った末、最後は僅かに頭だけジュピターアイランドが出たところがゴールだった。
そして、シビれる叩き合いを演じた2頭の手綱をとっていたのはP・エデリーとG・スターキー。ダンシングブレーヴの鞍上を取り合った2人だった。場所を東京に変え、エデリーのプライドとスターキーの意地が火花を散らした結果、軍配はエデリーに上がったのだ。
このことで「ダンシングブレーヴの乗り替わりはやはり正解だった」と言う意見を耳にすることもあったが、これには多少、スターキーを擁護したい。彼もスターアピールで凱旋門賞を勝ったり、シャーリーハイツでイギリスのダービーを勝利したりと、引退するまでに2000近い勝ち鞍を挙げた名手なのである。ダンシングブレーヴのダービーと、この時のジャパンCの敗戦のみで、彼の名声を貶めることには、多少異議を唱えたい。2人は共に名手だったからこそ、好勝負を演じることができたのである。
その後の彼等とジャパンカップ
さて、その後の彼等だが、ダンシングブレーヴは種牡馬になった後、マリー病という奇病に侵され、日本へ輸出された。数少ない産駒の中からイギリスやアイルランドでダービーを勝ったコマンダーインチーフやイタリアダービー勝ちのホワイトマズル、日本でも桜花賞馬キョウエイマーチや高松宮記念勝ちのキングヘイローなど活躍馬を出したが、病気の影響もあったのか99年、僅か16歳で急逝している。
また、スターキーは癌のため2010年に70歳で、その5年後の15年にはエデリーも63歳という若さで鬼籍に入った。
今でこそ日本馬の上位独占が当たり前になった感のあるジャパンCだが、日本馬を置き去りにして外国勢が覇を競った時代があったからこそ、日本のホースマンは上を目指し、現在の地位を獲得したのである。日本馬の強くなったジャパンCが今年も間もなくに迫った今、日本の競馬に大きな影響を与えた彼等は雲の上で当時の話に花を咲かせているだろうか……。
(文中敬称略、写真提供=JRA)