【深掘り「鎌倉殿の13人」】和田義盛の戦死後、北条義時が手にした執権とは
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、和田義盛が和田合戦で討ち死にした。その後、北条義時が手にした執権とはいかなるものか、詳しく掘り下げてみよう。
■北条時政と執権
執権とは「政権をとること、権勢をふるうこと。また、その人」と定義されている(『精選版 日本国語大辞典』)。権力者としての意味があるのは疑いない。
かつて、朝廷には記録所(荘園整理事業のための役所)が設置され、その職員が弁(文書事務を扱う職員)の別当(長官)として執権と呼ばれていた。また、院庁(上皇直属の政務機関)の別当が執権と呼ばれることもあった。
建仁3年(1203)7月、2代将軍の源頼家に代わって、弟の実朝が12歳で征夷大将軍に就任すると、10月に北条時政が政所(幕府の財政などを担当する機関)の別当に就任した。
すでに大江広元が別当を務めていたので、2人体制になった。別当は長官を意味するので違和感があるが、時政には広元の助力が必要だったので、このような体制になったのだろう。
その後、時政は幕府の実権を掌握し、やがて執権とみなされるようになったが、時政を初代執権として認めるか否かは見解が分かれる。後述するとおり、義時を初代執権とみなす見解もある。
■北条義時の台頭
元久2年(1205)閏7月、牧氏事件で時政は失脚し、義時が政所別当を引き継いだ。この事件によって、義時は幕府内で権勢を築き上げる第一歩を歩み出したのである。
建保元年(1213)5月、義時は敵対する侍所別当の和田義盛を滅亡に追い込んだ(和田合戦)。その結果、義時は義盛の持っていた美作国守護と侍所別当の座を継承した。これには大きな意味があった。
義時は政所と侍所の2つの別当を兼ね、執権と称されるようになったのである。以後、執権とは将軍を補佐し、幕府の政務を統括する最高権威の職を意味するようになった。
■まとめ
こうして義時は、執権になることで幕政の実権を握った。その後、執権は代々北条氏によって世襲され、盤石な体制を築いたのである。