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【「麒麟がくる」コラム】明智姓を持つ明智光秀の家臣とは!?その謎を考えてみる!

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
明智秀満は福知山城の城主を務め、丹波支配を行っていた。(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

■明智姓を持つ家臣

 明智光秀の家臣団については、以前取り上げたことがある。こちら。光秀の家臣団は、美濃、近江、丹波をはじめ、室町幕府の家臣など多種多様な出自を持つ者によって構成されていた。そのなかで注目すべきは、明智姓を持つ家臣の存在だろう。

 以下、明智姓を持つ家臣を取り上げ、彼らの出自などを検証することにしよう。

■明智左馬助秀満

 明智左馬助は、三宅弥平次秀満のことである。諸書に光春と記すものもあるが、それは誤りと指摘されている。秀満の出自は諸説が唱えられ、なかには美濃で誕生した塗師の子というものもあり(『綿考輯録』)、美濃との関連性をうかがわせる。

 荒木村次(織田信長に放逐された荒木村重の子)の妻(光秀の娘)が光秀のもとに送り返されたので、秀満はこれを妻として娶ったという。『陰徳太平記』という信頼度の劣る史料の記述であるが、敗者から妻が送り返されることはよくあった。事実である可能性は高い。

 秀満が光秀から明智姓を与えられたのは、紐帯を強めるためだろう。そう考えるならば、秀満が光秀の娘を妻とした可能性は高いかもしれない。

■秀満の生年など

 秀満の生年は不詳とされているが、天文5年(1536)誕生説が通説となっている。つまり、天正10年(1582)に47歳で亡くなったことになる。

 『豊臣記』によると、秀満の享年が25歳と記されており、逆算すると永禄元年(1558)の生まれとなる。秀満の父も同年に亡くなっているが、享年は63歳(永正17年・1520年誕生)と明快に記されている(『兼見卿記』)。つまり、秀満は父が38歳のときの子となる。

■明智次右衛門

 明智次右衛門は、本姓が高山だったという。実名は光忠といわれているが、残念ながら裏付けとなる確たる史料はない。

 美濃国土岐郡には高山(岐阜県土岐市)という地名があり、土岐氏の庶流の土岐高山氏の存在が確認できる。明智次右衛門が土岐高山氏の出身だったと即断し難いかもしれないが、美濃国の出身であった可能性は高いのではないだろうか。

■その他の明智姓の家臣

 丹波では船井郡の土豪の小畠国明・伊勢千代丸の父子が光秀の配下におり、伊勢千代丸もまた明智姓を与えられていた(「小畠文書」)。小畠氏は光秀と頻繁に書状を交わしていたので、信頼されていたのだろうか。ほかの諸書にも、明智掃部の名が見える。

 『惟任退治記』には、明智勝兵衛、明智孫十郎の名が見えるが、彼らの事績については不詳である。『兼見卿記』に登場する、明智出羽とその弟・左近允も同様に出自などは不明である。いずれにしても、彼らは光秀の子や親戚ではなく、明智姓を授けられたと考えられる。

■明智姓を与える意味

 おそらく彼らは光秀に目を掛けられ、家臣として登用されるとともに、明智姓を与えられたのではないだろうか。光秀は信頼できる家臣に明智姓を与えることで、関係を強化しようとしたのだ。

 こうした例は、何も光秀だけに限らない。黒田官兵衛(孝高・如水)は、父祖の代から播磨御着城(兵庫県姫路市)主の小寺氏に仕え、最初は小寺姓を名乗っていた。

 備前などの戦国大名・宇喜多秀家は、重臣に宇喜多姓ではなく、当て字の「浮田」姓を与えた。当て字だった理由は定かではないが、関係強化に努めたのには変わりないと思う。

 ただでさえ、出自が定かではない光秀には、譜代の家臣がいなかった。明智姓を家臣に授けたのは、彼らの心を繋ぎ止める方策だったのだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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