愛子さまも模範とされる昭憲皇太后 一世紀の時を越えてよみがえったドレスとは?
4月10日、明治天皇の后・昭憲皇太后の没後110年に際し、愛子さまが初めて明治神宮を参拝された。前日には天皇皇后両陛下、上皇ご夫妻、秋篠宮ご夫妻が参拝され、12日には佳子さまがご参拝に訪れる予定だ。
今月から日本赤十字社にお勤めを始めた愛子さまにとって、昭憲皇太后は5世代前の先祖であるとともに、尊敬の念を抱いて仰ぎ見る存在であることだろう。
なぜなら昭憲皇太后は日本赤十字社の前身である博愛社を支援し、明治45年にアメリカのワシントンで開催された「第9回赤十字国際会議」で、10万円(現在の貨幣価値で約3億5千万円)を寄付し、世界的人道活動に大きく寄与された。
この資金をもとにして創設された「昭憲皇太后基金」は今も運用され、毎年、命日の4月11日に、世界各国の赤十字・赤新月社に配分されているという。
きっと愛子さまは、昭憲皇太后の御意志を受け継いで、困難にあっている人々のために活躍されることだろう。
いわば愛子さまの模範となる昭憲皇太后は、明治期の日本が国際化を果たそうとしている中で、率先してその変革に取り組まれたことでも知られている。
現在、明治神宮ミュージアムで展示されている、100年以上前に作られた昭憲皇太后の大礼服も、その変革の時代を探るひとつだ
◆絢爛たる昭憲皇太后の大礼服
ミュージアムの展示室に、昭憲皇太后が着用されたドレスや十二単などが並ぶ中で、ひときわ目を引くのが現存する最古の大礼服だ。トレインと呼ばれる引き裾には、金モールによってバラの花の立体的な刺繍が施され、その緻密さは息をのむ豪華さだ。
宮中で最も格が高い女子の礼服が大礼服であり、昭憲皇太后は新年の拝賀式で身に着けられたという。
この大礼服は明治42年に昭憲皇太后から京都市の大聖寺に下賜されたが、経年劣化が激しいことから修復復元プロジェクトが立ち上がり、5年をかけて当時の姿に再現した。
去年5月、上皇ご夫妻が京都を訪れて修復されたドレスをご覧になり、今月6日にこの大礼服についての国際シンポジウムを秋篠宮妃紀子さまが聴講されたほど、皇室の方々にとって、皇室の歴史を知る上で貴重な文化財でもある。
実はこの豪華なドレスには、ある謎が隠されている。
◆ドレスに秘められた昭憲皇太后の狙い
当初、この大礼服はヨーロッパで作られたものだと見られていた。デザインといい、刺繍といい、製作技術の高さから日本では作れないと誰もが思っていたのだ。
しかし、調査を進めた結果、緻密に織られたシルクの生地作りから縫製、刺繍に至るまで、ほぼ日本国内の職人によってなされたものである可能性が高いと分かったという。
それを裏付ける書面や記録は残っていないものの、刺繍の強度を増すために裏側に和紙の反故紙を使っていること、刺繍にボリュームを持たせるために泥紙(泥状の石が漉き込まれた和紙)が使われていること、明治21年に竣工した明治宮殿の染織品を西陣を中心に国内で製作していることから、当時、この大礼服を国内で独自に作り上げることは可能だった。
では、この大礼服の製作費には、どれくらいかかったのだろうか?
この大礼服が作られたのは明治20年代前半とされている。同じ時期に製作された昭憲皇太后のティアラを含めた宝飾品は、ドイツのレオンハルトとフィーゲルに数万円で発注されたことが当時の新聞記事に記載されており、現在の貨幣価値にすると4億〜6億円である。
これだけ手の込んだドレスなのだから、同様の金額がかかっていても不思議ではない。
それにしても最大の謎は、なぜ昭憲皇太后は莫大な費用と労力をかけてまで、日本国内の職人が製作することにこだわったのかである。
昭憲皇太后は、生糸生産など殖産興業も後押しされていた。大礼服の生地の製作から完成まで日本国内の職人が行ったのは、国際競争力を持つ新たな産業に発展させようと支援していたのではないかと言われている。
日本のために率先して国産品の使用を奨励し、国母としての姿を自らのドレスで示されたのだろう。
昭憲皇太后百十年祭・霞会館創立百五十周年記念「受け継がれし明治のドレス」は、前期4/6〜5/6、後期5/25〜6/30、明治神宮ミュージアムで開催。昭憲皇太后の大礼服は前期で展示している。
【関連記事】
愛子さまの卒業に際しての文書回答 「結婚について」の質問がなかった事情とは?
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/01a817a9ce1d14b166e5d313d251c0e08c561403