英語教育政策:変わる中身、変わらぬ杜撰さ
『英語教育』2017年9月号の特集「改めて振り返るこんなに変わった英語指導」に拙稿を寄稿した。編集部からのお題は、過去から現在までの英語教育政策の変化について書いて欲しいとのこと。というわけで、過去数十年、英語教育政策はその中身を大きく変えたが、決め方の杜撰さはまったく変わらないという話を(自分的には)最大限のオブラートに包んで論じた。
一定期間が経過したのでこちらにも下書きを掲載する。
「英語教育政策、変わったこと・変わらないこと」
英語教育政策について変わったこと・変わらないことを述べたい。90年代以降、英語教育は大改革の連続である。昭和期の改革と比べると、明らかに激動の時代である。そして、この背後には、社会が大変動しているという認識がある。本稿では、この「社会の大変動」について批判的に考えたい。
2016年末、中教審答申(以下「答申」)が発表され、今後の英語教育改革の方向が示された。その後、2017年3月に学習指導要領案が、6月に学習指導要領解説(以下「解説」)が発表された。いずれも、激動の時代だからこそ教育も大きく変えなくてはならないという論理に貫かれている。
2020年から小学校英語は教科になり、外国語活動は3・4年次へ引き下げられる。そして、中学にも「授業は英語で」の導入。一連の大改革の提案を、私は驚きとともに読んだ。
そして、またか、という気持ちを強くした。これほど抜本的な改革にもかかわらず、その根拠が不明確なのである。これは以前の改訂でも、さらにそれ以前の改訂でも同様だった。曖昧な根拠のまま改革がスタートする――これは、激動の英語教育の中で、数少ない変わらないことだろう。
外国語活動の成果?
たとえば、小学校英語の教科化・早期化。なぜそうするのか、その根拠はよくわからない。驚くほど分厚い「答申」も「解説」も、根拠を述べている部分は数ページにも満たない。本来はなぜこの改革が必要か言葉を尽くして論じるのが市民への説明責任だが、実際は、how の議論だけが非常に詳しく、why の部分はごくわずかである。
たとえば、2020年から前倒しになる外国語活動である。前倒しという形で継続するからには、今までそれ相応の成果があったということになる。継続という判断をした根拠は何か。
「答申」でも「解説」でも、児童が英語に親しむようになったことを外国語活動の成果としきりに強調している。しかし、その割には、成果の中身がいまいちよくわからない。文科省や研究者の議論を詳しく調べてみるのだが、そういうことを明確に述べているものは見つからない。
たしかに「多くの児童(あるいは「○割の児童」)が、英語が好き、あるいはどちらかといえば好き」と答えたという調査結果が示されることはある。しかし、考えてみてほしい。比較対象もないのに、たとえば「好きと答えた子ども8割」が外国語活動の成果と言えるのか。仮に放っておかれても「英語が好き」と答えた子どもが8割だったら、それは単に子どもは英語好きと答えやすいということに過ぎない。他の教科との比較でも同じことが言える。たとえばもし8割の子どもが「体育が好き、どちらかといえば好き」と答えたとしたら、子どもは学校の授業にポジティブな回答をしやすいという程度の意味しかない。
教科化の根拠?
今まで外国語活動だったものを教科に「格上げ」する根拠もなかなか微妙である。答申等は「現行の外国語活動だと体系性のある英語学習ができない。だから、教科として英語を教えましょう」という旨を根拠にあげている。
つまり、現在の5・6年の外国語活動は(「親しみ度アップ」という成果はあるが)体系学習の点では問題があるから、体系性のある「教科」にアップグレードするという趣旨である。
このような「課題」は、何らかの調査に裏付けられているのだろうか。筆者はこの分野の動向をそれなりに注視しているつもりだが、寡聞にして知らない。小学校英語の研究者は山ほどいるが、外国語活動が体系的な学習の妨げになっているか否かを正面から調査した人は思い当たらない。
他方、どうすれば外国語活動をスムースに中学英語へつなげられるかという研究は多数行われている。いわゆる小中連携である。つまり、関係者が小中接続のあり方を必死で模索している最中に、文科省は外国語活動のままでは接続は難しいと確たる根拠もなく結論づけたわけである。梯子を外されたにも等しい。関係者はもっと怒ってもいいのではないだろうか。
グローバル化への対応は本当に必要?
グローバル化への対応は、今回も教育改革のキーワードだ。これは英語教育だけでなく他教科も含めた教育課程全体を貫くスローガンである。
「グローバル化への対応」を文科省がしきりに強調するのは無理もない。日本はグローバル化という困難な課題に直面している、時代に合った教育で対応すべきだ――こういう理屈で、教育の重要性を外部の人(たとえば財務省)にも知らしめる必要がある。だから、文科省がグローバル化のような「殺し文句」に頼るのも頷ける。
一方、「お上の御言葉」というだけであまり真剣に受け取るのは考えものだ。世界がある面でグローバル化しているのは事実だが、別の側面では脱グローバル化も進んでいるからだ。たとえば、トランプ大統領の誕生をグローバル化進行の兆しと見る人はいないだろうし、Brexit をはじめとした欧州の状況も脱グローバル化を窺わせる。
とはいえ、英語教育界でのグローバル化の意味合いは単純明快である。8割方、「英語使用ニーズが増えること=グローバル化」という意味で使われている。しかし、この話も、関係者が信じているほどには単純ではない。
過去10年を振り返ってみても、ニーズが実は減っている段階がある。2008年のリーマンショックを契機としたグローバル経済危機の影響により、日本でも英語使用が減ったのだ。
拙著『「日本人と英語」の社会学』第10章では産業別に、2006年-2010年間での英語使用率の推移を計算した。以下の表にその抜粋を示す。
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飲食店産業 30.9% → 12.7%
運輸業 22.4% → 6.2%
医療 15.3% → 15.0%
不動産業 6.2% → 6.2%
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表 2006 → 2010 英語使用率の変化
(※この使用率には限定的・局所的な英語使用も含まれる。詳細は上掲書参照)
外国人観光客と接触の多い産業や貿易依存度の高い産業(表では飲食店産業や運輸業)で英語使用が大きく減った。逆に、国内需要への対応を主とする産業にはほとんど影響がない 。
2011年以降に関しては残念ながら信頼に足る統計がないが、経済危機からの回復を考えると、英語ニーズもある程度上向いているだろう。特に、訪日観光客、とくに東アジアからの(つまり英語の非母語話者の)観光客はここ数年で爆発的に増加している。この意味で、リンガフランカとしての英語のニーズはますます高まっていそうである。とは言え、社会全体にニーズが浸透するはずがないのも事実。どんな社会でも分業化されている以上、多くの産業は国内的な需要を基盤にし続け、英語化の流れにそう簡単になびくことはない。文科省が「グローバル化」を旗印に教育の重要性をアピールしたいのはわかる。しかし、私たち関係者が真に受けるのは、現実を歪めることにもつながりかねない。慎重な判断が求められる。
根拠ある政策を
約10年前の指導要領改訂の議論も今回と同様だった。大した根拠もないまま、外国語活動や高校英語の「授業は英語で」は導入された。英語教育政策がめまぐるしく変わるのとは裏腹に、根拠なしに改革が進むのは昔から変わらない。
しかし、根拠の定かでない政策に対し、市民や政治家の目が厳しくなっているのも事実である。いささか 気の早い話だが、2030年前後の指導要領改訂に向けて、信頼性の高い調査研究・エビデンスの地道な蓄積が切に求められている。