【深掘り「鎌倉殿の13人」】牧氏事件に関与して、悲惨な最期を遂げた平賀朝雅
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、牧氏事件に関係して、平賀朝雅が京都で殺害された。朝雅が殺害された経緯について、詳しく掘り下げてみよう。
■牧氏事件と平賀朝雅
御家人や子の北条政子・義時と対立した北条時政は、平賀朝雅を新将軍に擁立し、現職の将軍の源実朝を殺害しようと計画した(牧氏事件)。妻の牧の方も、その計画に協力したという。
元久2年(1205)閏7月19日、政子と義時は時政らの策謀を知り、ただちに時政邸にいた実朝を自邸へと移した。政子と義時には大半の御家人が味方したので、時政はすぐさま窮地に陥った。
抵抗を諦めた時政と牧の方は翌日に出家し、その後、鎌倉から伊豆へ追放された。朝雅は京都守護として京都にいたが、もちろん罪を逃れることはできなかった。
■討伐された朝雅
同年閏7月26日、幕府は在京武士に命じて、朝雅を討たせようとした。その日、朝雅は後鳥羽上皇の仙洞で囲碁会に参加しており、小舎人の童から討手が来ていることを伝えられた。
しかし、朝雅は何事もなかったかのように冷静で、上皇に討手が来たことを告げると、暇乞いをしたという(『吾妻鏡』)。『明月記』によると、朝雅はこのときになって、はじめて自分が討たれると思ったようである。
幕府の朝雅追討命令は、実朝が加判した命令であり、上皇にも伝えられていた。たちまち朝雅の六角東洞院の邸宅は攻囲された。朝雅は大津(滋賀県大津市)へ逃げようとしたが、途中の山科(京都市山科区)で自害したのである。
首を取った金持広親は上皇のもとに持参し、その後、松坂という場所で梟首したという。新将軍に擁立されようとしたにしては、朝雅の最期はあまりに悲惨だったといえよう。
■まとめ
朝雅が本当に新将軍に擁立されようとしたのかといえば、いささか疑問が残る。そういう計画があったにしては、あまりに無防備だからだ。
政子と義時は、時政と牧の方を封じ込めようとし、その理由を時政の娘婿の朝雅の新将軍擁立に求めたのではないか。一網打尽にすることによって、禍根を残さないようにしたのである。