【戦国こぼれ話】今村翔吾さんの小説『塞王の楯』に登場する鉄砲職人「国友衆」とは
直木賞を受賞した今村翔吾さんの小説『塞王の楯』では、鉄砲職人「国友衆」が重要な役割を果たしている。彼らがいったいいかなる集団なのか、深く掘り下げてみよう。
■鉄砲伝来の時期への疑問
天文12年(1543)8月、ポルトガル船が門倉崎(鹿児島県南種子町)に漂着し、現地の種子島氏に鉄砲を伝来したといわれている(『鉄炮記』)。
教科書ではそう説明されているが、今や『鉄炮記』の記述が疑問視されている。というのも、『鉄炮記』は慶長11年(1606)に成立した編纂物で、必ずしも全面的に信が置けないからだ。
■鉄砲職人「国友衆」
「国友衆」は、現在の滋賀県長浜市国友町に集住した鉄砲職人の集団である。天文13年(1544)、将軍足利義晴から鉄砲を見せられ、国友村(当時)で鉄砲の製造がはじまったと伝わる。これは『国友鉄砲記』に書かれたたことで、何の疑問も持たれなかった。
近年、太田浩司氏の論文「国友鉄砲鍛冶の成立 ―編纂物に頼らない歴史構築の試み―」により、新説が提示された。それは、『国友鉄砲記』などの二次史料によるのではなく、可能な限り一次史料を用いた研究である。
以下、長浜市提供の報道資料「国友鉄砲鍛冶成立に関する論文の発表 ~室町将軍による創始説から浅井氏による創始説へ~」なども参照しながら、太田氏の新説を示すことにしよう。
太田氏の新説のポイントは、以下の4つになる。
■ポイント① 国友鉄砲のはじまりは浅井氏
国友鉄砲鍛冶は『国友鉄砲記』の記述により、室町将軍家からの発注で始まったと説明されてきた。しかし、『国友鉄砲記』は17世紀初頭に成立した二次史料で、史料的価値が低い。実際は、戦国大名の浅井氏が意図的に鉄砲鍛冶集団を国友村に作ったのが正しいと考えられる。
■ポイント② 織田信長が鉄砲を国友村に発注した事実は確認できない
織田信長が鉄砲を国友村に発注したことは、たしかな史料で確認できない。しかし、信長軍が天正3年(1575)の長篠設楽原合戦(織田・徳川連合軍の鉄砲隊と武田軍騎馬軍の戦い)で使用した大半の鉄砲は、国友製であることは否定できない。
■ポイント③ 一次史料「国友助太夫家文書」が重要
長浜城主・羽柴(豊臣)秀吉や佐和山城主・石田三成からの鉄砲発注や鍛冶師の保護政策については、「国友助太夫家文書」に残る秀吉や三成の文書が重要である。『国友鉄砲記』などの信頼度が落ちる二次史料によるべきではない。
■ポイント④ 江戸幕府が大坂の陣で国友衆に発注した鉄砲の数
江戸幕府が慶長19・20年(1614・15)の大坂の陣で、国友衆に注文した鉄砲の数は、「国友助太夫家文書」などの確実な史料により、少なくとも192挺となる。600挺以上になる可能性もある。
■むすび
太田氏の研究のポイントは、『国友鉄砲記』などの信頼度が落ちる二次史料によるのではなく「国友助太夫家文書」などの一次史料を用いたことだ。
戦国時代の有名なエピソードは、一次史料に書かれておらず、史料的の質が劣る二次史料に基づくものが大半だ。話としてはユニークだが、史実として認めがたい。
太田氏の研究国友鉄砲だけではなく、鉄砲史研究の進展に寄与したことを強調しておきたい。
【主要参考文献】
太田浩司「国友鉄砲鍛冶の成立 ―編纂物に頼らない歴史構築の試み―」(『銃砲史研究』391号、2020年)