心の休まる「第三の居場所」が健全なくらしに役立つ 江崎グリコを事例として
近年、企業がマーケティングにおいて、ファン・コミュニティを活用する例が増えてきている。
もともとコミュニティとは共同体を意味し、語源に関係するラテン語の Communis は共有や友情、分かち合うことといった意味をもつ。転じて地域共同体や生活共同体、職場共同体のように、人と人とのつながりにより、主には利害を共有して相互に協力する関係を指すものとなった。
人間は他者との関わりの中で生きており、各自の置かれた共同体の中でそれぞれの役割を、いわば演じている。家庭においては父や母、職場においては役職や職務といったように、そこではいくばくかの外的なプレッシャーや責任感を伴う役割を担う必要がある。それゆえ人は、必ずしも家庭や職場といった共同体における活動の中でのみ、十分な満足を得られるとは限らない。しがらみから解放されたいとか、身内の目の届かない気の置けない場所が欲しいといった欲求もまた、生じるようになる。
そのためサードプレイス、第三の居場所を、人は求める。サードプレイスとは、アメリカの社会学者レイ・オルデンバーグが唱えた概念であり、所与の共同体における圧力から解放されて、休息の得られる場所である。中立かつ平等な関係を築くことができ、親しみのある会話が可能であり、容易にアクセスできる場所が候補となる。例えば、行きつけの居酒屋やスナックなどに、人は第三の居場所を求める。そしてスナックの場合、店主に対しては愛着を込めて「ママ」と呼ぶのである。
Cuddleというマッチングアプリを運営うる会社による、20から40代を対象とした「既婚女性のストレスに関する調査」によれば、「ストレスを感じる機会がある」と答えた人に対して「ストレスの原因について相談する相手がいるかどうか」を質問したところ、子供のいる既婚女性の39.8%、子供のいない既婚女性の36.2%が「いない」と回答した。実に4割近い既婚女性は、気軽に悩みごとを相談できる相手がいないようである。
よって、既婚者同士で悩みや愚痴を共有できる場、家庭や職場ではない第三の居場所をつくりたいというのが、同社の目指すところのようだ。しかし一方で、このアプリは確かに危険なにおいもする。実際、利用者のコメントを見るかぎり「火遊びを楽しむ」関係を目的として参加する人もいるようだ。同社は「健全な出会いを求める方」を対象としているから、その先の関係は当人らの問題ということだろうか。いずれにせよ、本来のサードプレイスは家庭という第一の居場所を壊す存在ではなく、ましてや人を堕落させるための場所でもない。
人の満足を生み出すサードプレイスの形成に向けて、この機会に人の健全なくらしや生き方、生活の場とは何であるかと問いたい。
ファンのまちを形成する
江崎グリコ(以下グリコ)の運営する with Glico は、登録費用と年会費ともに不要な、グリコの会員コミュニティである。
ファン・コミュニティをつくるにあたり、グリコの商品に対するファンを集めたい、ということでは成功しない。人はそこに、自分の関心事や居場所があるから集まるのであり、企業や商品のために集まるのではないのである。あるいは、企業や商品と自分とが、共通の目的に向けて相互に関係しあうと実感するとき、そこに自分のアイデンティティを求めて参画する。
よってグリコの場合、顧客の「ココロとカラダの健康」のサポートを目的としたコミュニティとしてつくられている。例えば現代の主婦は、まさしく生活上の相談ができる社会的つながりが少なくなった。そこでコミュニティでは、わくわく子育て広場とかレシピクラブ、おしゃべりカフェなど、食や健康に関係する交流の場を提供することで、顧客のくらしをサポートしている。
つまり人は、自分ごととして捉えられ、また互いに困りごとや価値観を共有することを目的とするコミュニティに参画するのである。他でいえば、カインズの CAINZ DIY Square などが好事例である。DIYを趣味とする人たちが、一生懸命につくった力作を、コミュニティ上に画像掲載する。そうすると、同じ趣味をもつ人たちが感化され、自分もよいものをつくりたいと考えて、カインズ「などの」ホームセンターを訪れる。カインズは、そうした人たちの生活を支える主要な立場と位置づけられる。
先の記事に書いたmineoの事例もまた、参考になる。格安スマホのmineoでは、顧客をブランドを一緒に創る同志・仲間・友達と位置づけ、安さばかりでなく、ファンとの共創に基づく独自価値を打ち出そうと試みた。マイネ王というコミュニティをファン同士の交流や助け合いの場と位置づけ、仙台市復興支援の取り組みまで創出している。
実は筆者も、大学院の頃にGREE上でコミュニティを創り、長年運営していた。コミュニティ名は「本気で日本を守っていこうと考えている人たちが集まる会」であり、日本を守るには何が必要かをテーマに、およそ3,000名が参加し、各自が思い思いに議論を交わし、また行動していた。世のため人のため日本のために貢献したいと渇望する人は、案外多いものだ。人間は、快楽や快適さばかり求める生き物ではないのである。
自分の望みを叶える居場所を用意してくれる企業というのは、有難い存在である。他者から何かを受け取ったとき、お返しをしたいという気持ちになる心理を返報性の法則というが、消費者もまた居場所を与えてくれた企業に対し、恩返しをしようとする。人に商品を薦めたり、自分と目的を共有する仲間になってほしいと願ってコミュニティに招き入れたりする。
消費者の声や購買行動を分析できるという利点もあるが、どちらかといえば人と企業とが一体となり、共有価値を高めていく仲間となりうる点が、コミュニティづくりの意義であろうと筆者は考える。流行りの言葉をもち出すまでもなく、もともと企業は人びとに貢献することで、対価を得る存在である。そうであれば、コミュニティづくりもまた、人びとに価値を届けるための本流の活動とみなされよう。
なお、皇學館大学のSpeee寄付講座の第三回では、江崎グリコ株式会社のデジタル推進部長、武子弘司氏をお招きし、「お客様と一緒に寄り添うデジタルを目指して」のテーマでご登壇いただく。開催は10月24日18時から19時。受講対象者には他大学の学生や一般の社会人も含まれ、無料のオンライン講座であるから、この機会に是非ご聴講いただきたい。
参加お申し込みURL
https://forms.gle/NB7RXyf1n1S7JMCY9
違いを活かす社会へ
ファン・コミュニティとは、ファンを増やすことでなく、ファンと共に生き、価値創出することを目的とするコミュニティである。
フィリップ・コトラーはマーケティング4.0の中で、人びとは包摂されることを望んでいると指摘している。包摂とは、あるものを一定の範囲の中に包み込むこと、広く受け入れることを意味する。ここから、人びとが共に支え合う社会的包摂(ソーシャル・インクルージョン)という言葉が派生したが、コトラーのいうように、包摂とは同じようになることではなく、違いがあるにもかかわらず調和して生きることである。SDGsでいう「誰一人取り残さない」の原則も、ここから来ている。
違いを受け入れる社会において、多くの人びとを一様に満足させることは難しい。それぞれの人に、それぞれの満足を届ける必要があるのだが、しかし人びとの求めるものは、どのように理解し、解釈すればよいのか。各種のSNSは発達しているが、シーンが異なれば当人のニーズも異なるのは当然だ。発言には本音と建て前があるというが、その根底にある本心や価値観を捉えるには、状況に応じた人の振る舞いを包括して眺める必要がある。
そうであれば、人がそこに留まり、何らかくらしの一部を過ごす場所を、自らの手で用意する必要があろう。遠く離れた多くの人が参加するならば、インターネット上が望ましい。くらしの体験の中で人のつながりが形成され、過ごす場所に愛着をもつとき、帰属意識が生まれる。そのとき機能する集団の核となる価値の維持と発展に向けて、人びとは相互に協力し合い、自発的に行為するようになる。
人びとの自発性に基づく場所は、人びとの望むように変化し、自ずと文化や規範が形成される。そこでは一部の権力による恣意的なコントロールは不能となり、権力には人びとの望むものを正しく捉え、滞りなく満足させることが要求される。そうすることが、更なる愛着と帰属意識を育み、永続的に価値を高めることにつながるのだから、権力にとっても都合がよいであろう。
全体は部分の総和を超える。そこには文脈があり、人びとの目的や思いがあり、意味や意義の連関がある。個々の力を相互に働かせることによって、社会は機能し、発展を遂げていく。