思いもしない事態に襲われ騎手を引退した男が、アメリカ遠征で感じた騎手への想いとは……
騎手デビューも怪我で思わぬ事態に追い込まれる
高野容輔が日本を発ったのは4月22日。馬と一緒にカーゴに乗り込み、夢を叶える国へと飛んだ。
1983年10月生まれで現在35歳。兵庫県の競馬とは無縁の家庭で育った。14歳の時のある日曜日。友達と遊ぶ約束が急に無くなり、仕方なく家でテレビを見た。そんな偶然が自分の将来を左右するとは夢にも思わなかった。
「そのテレビで見たのがシルクジャスティスの勝った有馬記念でした。藤田伸二さんを見た時に『ジョッキーって格好良い』って思いました」
競馬学校の受験は両親に反対された。父からは「乗馬経験もないのに落馬でもしたら多くの人に迷惑をかける」と諭され、母には「何を言っているの?!」と呆れられた。しかし、「一度受けて駄目なら諦める」という条件を渋々飲んでもらい、受ける事になった。
「両親共に受かると思っていなかったから承諾してくれたのだと思います」
ところがそんな思惑に反し合格の報が届いた。
「正直、自分でも驚きました」
競馬学校を出ると2002年3月に晴れて騎手デビュー。当初から障害レースにも乗っていた事もあり、減量の特典があるうちはそれなりに勝てた。しかし、当時、その特典はデビューして3年目まで。ここまでで40勝を挙げながらも、4年目以降は騎乗数が激減。当然、勝利数も減った。
「障害レースで落馬して休んでいる間に減量がなくなってしまいました。その後、乗せていただいた調教師に『なんだ、おまえ、減量はもうないのか?!』と露骨に顔をしかめられた事もありました」
もがく日々が続く中でも、08年にはトーホウシャインに騎乗してマーメイドS(G3)を優勝した。しかし、この年の勝ち鞍はその1つだけ。「テレビのインタビューも表彰台の上がり方さえも分かりませんでした」と苦笑する。
10年にはメルシーモンサンで中山グランドジャンプ(J・G1)を優勝した。普段の調教でも乗りながら育てた馬で、レースでは自ら勝負にいく騎乗をした上での勝利。ゴール後すぐに号泣した。
しかし、その時すでに身体は病魔に侵されていた。前年、調教中に落馬をし、首を圧迫骨折したのを始め、度重なる落馬に体が悲鳴をあげた。10年の秋に異変を感じる出来事があったのだ。
「レースで落馬した後、普通に話していたらしいのですが、全く記憶が無いという事が何回かありました。同じ事を繰り返して話していたらしいのですが、ふと気付くと『あれ?落馬したの?』という事があったんです」
この時点でまだ26歳ながらすでに結婚もしていた高野。まだまだ続く人生とその生活を考えると、怖くなった。
「悪い記憶を脳が消そうとしているのだと思いました。この時ははっきり言って心が折れました。すぐに引退を決意しました」
騎手を引退して出会った馬
こうして騎手を引退し、調教助手となった。大久保龍志厩舎など、いくつかの厩舎を渡り歩いた後、17年から現在の角田晃一厩舎に籍を置くようになった。
18年、体の固い栗毛の2歳馬との出会いがあった。手前(軸脚)を変えるのも下手で、前後がバラバラの動きをする馬だったが、ダートを使うと連勝した。
「それがマスターフェンサーでした。常歩から前後が連動するように常に意識して乗るようにはしたけど『競馬へ行ってよく走れるな?!』と思えるくらい固い動きをする馬でした」
伏竜Sで2着に負けた後は「次走は園田?」と話していたが、思わぬ報告を指揮官から告げられた。
「『アメリカへ行くから準備をして』と言われ『本当?!』と思いました」
ケンタッキーダービーを始めとしたアメリカの3歳クラシック戦線への挑戦だった。
長距離輸送を考えてなるべく体を大きくさせようと飼い葉を食べさせた。しかし、思ったほどには大きくなってくれなかった。そうこうするうち出国検疫で1週間、隔離された。そこから飛行機での長距離輸送。更にアメリカ到着後も着地検疫が待っていた。
「キョロキョロして飼い葉食いも落ちて、げっそり痩せてしまいました」
それでも入厩先のキーンランド競馬場で草を食べさせたら徐々に回復していったと言う。
「草をよく食べてくれて、一緒に栄養分のある土を食べたのが良かったのかもしれません。飼い葉も食べるようになって、ベストではないけど、ギリギリ、ケンタッキーダービーに出走できる態勢になりました」
戦いの場となるチャーチルダウンズ競馬場の馬房は目の前をファンが往来できる造りで、まるでライヴ会場のようにうるさかった。しかし……。
「そんな中で寝ているマスターフェンサーをみて『たくましくなった』と思いました」
最後方からのレースになった時は「やはり難しいか……」と思ったが、直線に向くと追い上げ開始。7位入線後、繰り上がりで6着になると、続くベルモントSでは俄然、注目度が変わってきた。
「状態が良くなったので、勝ち負けして欲しいという願いを持ち、コース脇で観戦していました」
いつも通り道中は後方。最後は大外から差を詰めたが、前半のペースが上がらなかったため、追い込み切れず。5着に敗れた。
「マスターフェンサーはよく頑張ってくれました。僕の方がもっと技術を磨いて、たとえ施設が変わってもしっかり負荷をかけて仕上げられるようにしないといけないと感じました」
また、今回の遠征で思い出に残った事としては次のように話した。
「国が違ってもホースマンは皆、優しいと思いました。周囲の厩舎の人達は皆『何かあったら言って』と声をかけてくれました。お陰でアウェー感は全くありませんでした」
フランク・シナトラの歌声で流れた『ニューヨーク・ニューヨーク』に観客が合唱する中、ベルモントSに出走する各馬が馬場入りをする。その場面を見た時はジョッキーに戻りたくなったのでは?と問うと、それにはかぶりを振ってキッパリと答えた。
「それはありません。騎手のままだったら今回の遠征にも来られなかったでしょうし、つまりはこんな素晴らしい経験も出来なかったはずです。今は調教助手という立場で厩舎や馬自身に対して出来る限りの貢献をする。それしか考えていません」
騎手への想いはもう無い彼が、日本を発ったのは冒頭に記した通り4月22日。一カ月半も前の事だ。戦いを終えた彼の現在の願いは10歳と9歳の2人の息子が待つ家に帰る事だ。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)