【深掘り「鎌倉殿の13人」】源頼家・実朝という2人の将軍は、単なるお飾りだったのか
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では源頼家が幽閉後に殺害され、後継者の実朝も頼りない感じだ。2人の将軍がお飾りにすぎなかったのか、詳しく掘り下げてみよう。
■源頼朝のカリスマ性
初代将軍を務めた源頼朝には、いわゆるカリスマ性があった。治承4年(1180)、頼朝が打倒平家の兵を挙げると、多くの東国の豪族が従った。それはなぜだろうか。
頼朝は伊豆の流人にすぎなかったが、伝統ある河内源氏の末裔だった。挙兵時の頼朝は30代前半の脂の乗った時期で、十分に分別もあった。北条時政が娘の政子を娶らせたのは、そういう事情もあったに違いない。
東国の豪族のなかには平家に苦しめられ、泣き寝入りする者もあった。近隣の豪族と所領をめぐる紛争も生じていた。多くの東国の豪族は、頼朝を棟梁と仰ぐことで、さまざまな難題の解決を望んだのだろう。
その期待に対して、頼朝は見事に応えた。同時に、頼朝はたとえ弟であっても、意に添わなければ討つことを躊躇しなかった。ある種の恐怖政治であるが、かえって頼朝のカリスマ性を高めることになったのである。
■幼かった源頼家・実朝兄弟
建久10年(1199)1月に頼朝が没すると、跡を継いだのが当時まだ20歳の頼家だった。すでに成人していたとはいえ、頼家はまだ未熟で頼朝のようなカリスマ性はなかった。極論すれば、「お飾り」である。
頼家のバックには乳父だった比企能員がいたが、これが北条時政との不和のきっかけとなった。結局、時政は能員を殺害し、同時に用済みとなった頼家を伊豆の修禅寺に幽閉すると、のちに殺害した。
時政にすれば、頼家は扱いにくい存在だったので、そうせざるを得なかった。代わりに擁立したのが、頼家の弟の実朝である。当時、実朝はまだ12歳にすぎず、政治的な後ろ盾が必要だった。時政にとって、好都合だったのだ。
しかし、今度は時政の専横が問題視され、子の政子・義時姉弟によって伊豆に追放された。こうして義時は執権となり、幕政における絶大な権力を掌握したのであるが、幼い実朝は無力だった。
■まとめ
つまり、将軍とは御家人社会の統合の象徴にすぎず、すでに政治的な意味を喪失していた。頼家も実朝も有力者の後ろ盾なくして存在できなかったのだ。
義時はそのことを十分に理解しており、以後の激しい権力闘争の中で、政治的実権を自己に集中させるよう注力したのである。