おちこぼれの哲学に見る「つい子どもを叱ってしまう親」を卒業する方法とは?
おちこぼれの哲学とは
心理学の源流はキルケゴール哲学だと言われています。高校の倫理の教科書に実存主義の父として登場するあのキルケゴールです。
彼は主著『死に至る病』の扉に「心理学的論述」と記しています。ここでいう心理学とは、深い人間洞察という意味です。キルケゴールがこの世を去った翌年にフロイトが生まれ、やがて今の科学の心理学がかたちづくられてゆきます。そのフロイトのよき研究者が精神分析の権威であるジャック・ラカン……といった具合。その系譜を私は勝手に、親しみを込めておちこぼれの哲学と呼んでいます。
キルケゴールはイケメンにして頭脳明晰だったそうですが、いわゆる親ガチャにハズれ、大失恋を経験し、自費出版した著書は売れず、といった人生を送りました(死後、世界中で爆発的に売れ、いまや古典中の古典になっているが)。
そんな彼はおちこぼれつつ、徹底的に「私」にこだわりました。「なぜ『私』はこうも生きづらいのだろう……」「『私』ってじつはどんなふうにできているのだろう」。そのキルケゴールの視点はやがてフロイト、ラカン、メルロー=ポンティへと引き継がれてゆきます。
つい子どもを叱ってしまう理由とは
さて、いけないとわかっているのについ子どもを叱ってしまう理由を、キルケゴールは「親自身が自分に絶望しているからだ」と言います。自分に絶望するとは、彼によると、「理想の自分」になれない「自分に怒る」ということです。
たとえば、「聞き分けがよく、しっかり勉強する子どもの母親」を理想の自分としている母親がいるとします。しかし現実はといえば、子どもはわがままばかり言い、勉強しろと言ってもちっとも勉強しない。だからつい子を叱る。
むろん、直接的には、母親は子のふるまいに対して怒っています。しかし、より本質的には(というか、キルケゴールの言説にしたがうなら)、聞き分けがよく、しっかり勉強する子どもの母親という「理想の自分」になれない自分に怒っているのです。別の言い方をするなら、理想の自分になれない自分に絶望しているのです。では、その背景には何があるのでしょうか。
姉に勝ちたい!
たとえば、わたしのもとにカウンセリングに訪れたある母親には、姉に対する復讐心がありました(その母親には姉がいた)。子どもの頃から勉強もスポーツも自分よりはるかによくできる姉に「あなたはできそこないだ」と言われ続け、結婚し子をもうける頃になると「姉の子より優秀な子に育てて姉を見返してやる!」と思っていたそうです。
簡単な話です。その母親がわが子を叱る理由は、姉への復讐心ゆえ、すなわち子どもを使った代理戦争だということです。つまり、ついわが子を叱ってしまう背景には、姉への復讐心があったというわけです。
では、どうする?
では、「理想の自分」になれないなれなさに怒っている母親は、どうすればわが子を叱らない親になれるのでしょうか。
簡単に言えば、今の自分と理想の自分の折り合いをつけるしかありません。先の母親の例でいえば、おそらくは生まれつき優秀な姉に勝てないという現実を踏まえたうえで、理想の自分を再構築するしかありません。そのためには自分がこの世に生まれてきた使命を知ることです。
キルケゴールは「神に透明に基礎を置く」ことが絶望からもっとも遠い状態だといいます。この神をキリスト教の神、すなわちイエスと解釈する向きもありますが、わたしは「永遠」のことだと解釈しています。永遠とは、キルケゴール哲学における最重要語で、「神ではないが神につながるなにか」です。たとえばヴィクトール・フランクルにおける「精神」に近いものです。そこに使命が隠されています。
自分を生きる
他方、キルケゴールをひそかに敬愛していたジャック・ラカンなら「間主観性に気づこう」と言うかもしれません。他人のふるまいを見て自分のふるまいを決めることを間主観性といいます。東大はすごいとみんなが言うから東大に行くとか、30歳までに結婚しないと世間体が悪いから29歳と11カ月でそそくさと結婚を決めたとか、そういうことです。
間主観性に支配されつつ生きるとはすなわち、他人の欲望を生きることであり、「私は本当はこう生きたい」という気持ちに蓋をして生きることです。あらゆる抑圧は絶望の原因になるというのは、心の世界の定説ですから、間主観的に生きるとやがて精神を病みます。その必然の結果として、つい子どもを叱る親になります。他人の欲求を生きていないか、たえず自問自答する必要があります。
つい子を叱る親を卒業しようと思えば、親自身が自分「を」生きる必要があるのです。