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【光る君へ】藤原宣孝の御嶽詣のエピソードは、どのようなものだったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
金峯山寺の門前町。(写真:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「光る君へ」では、藤原宣孝が奇抜な衣装で御嶽詣を行ったというシーンがあった。そもそも御嶽詣とはどういうものなのかも含め、考えることにしよう。

 御嶽(御岳とも)詣とは、奈良県吉野町の金峯山に参拝することである。金峯山寺は山岳修験の中心地であり、蔵王権現を祀っていたことで知られる。

 平安時代になると、人々は盛んに御嶽詣、御嶽精進を行うようになった。こうして、金峯山の山岳信仰が各地に広まり、木曽御嶽山、武州御岳山、甲州御岳山も信仰の対象になったのである。

 清少納言の『枕草子』の「あはれなるもの」には、藤原宣孝の御嶽詣の模様が描かれている。その冒頭で、清少納言は信心深い人が御嶽精進をする姿が心を打つと書いている。京都から奈良に行くのは大変なので、貴人であっても粗末な服装で参詣したという。以下、宣孝の話になる。

 宣孝が言うには、「粗末な服装で金峯山に参詣するとは、実につまらないことだ。きれいな服装で参詣して、どんな差し障りがあるのか。まさか御嶽様が『粗末な服装で詣でよ』とは言わないだろう」とのことだった。

 正暦元年(990)3月晦日、宣孝は濃い紫の指貫、白い狩衣、山吹がさねの服装で参詣した。子の隆光は、青色の狩衣、紅の衣、模様の入った水干袴で参詣した。

 道中を往来する人は二人の服装を見て、「いったい昔から、こんな服装の人は見たことがない」と驚き、呆れたという。二人は、翌4月1日に帰洛した。

 同年6月10日、在任中の筑前守が亡くなり、その後任に宣孝が選ばれた。宣孝が筑前守に就いた話を聞いた人々は、「彼の言ったこと(派手な服装でも問題ない)も決して間違ってはいなかった」と評判になったという。

 最後に清少納言は、「別に心打たれる話ではないが、御嶽詣のついでに記しておく」と結んでいる。清少納言は御嶽詣に出掛ける人には感心したが、宣孝の話には心を打たれなかったのである。

 その後も宣孝は栄転を続け、太宰大弐を兼任し、京官に復してからは右衛門権佐となり、のちに山城守を兼ねた。紫式部と結婚したのは、長徳4年(998)頃だったといわれている。切れ目なく官職を与えられたのは、紫式部の父・為時とは大違いだったといえよう。

 宣孝が亡くなったのは、長保3年(1001)4月25日のことである。平凡ながらも、順調な生活を送ったのではないだろうか。御嶽詣の効果があったのかもしれない。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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