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【戦国こぼれ話】織田信長はなぜ比叡山を焼き討ちにしたのか?その当然すぎる理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
比叡山焼き討ちを敢行した織田信長の行為は、どう考えられているのか?(提供:アフロ)

 比叡山延暦寺(滋賀県大津市)の国宝殿では特別展「戦国と比叡~信長の焼き討ちから比叡復興へ~」が開かれている(12月5日まで)。ところで、織田信長が比叡山を焼き討ちにした理由はいろいろあるが、実際はどの説が有力なのか考えてみよう。

■織田信長の比叡山焼き討ち

 元亀2年(1571)9月12日、織田信長は比叡山の焼き討ちを敢行した。これにより、比叡山の諸堂は信長の将兵に焼き尽くされ、山内に住む僧侶などは、ことごとく殺害された。戦国時代でも、一二を争うような大量虐殺だったといえよう。

 信長による比叡山の焼き討ちについては、これまでどのように評価されてきたのだろうか。この点をもう少し考えてみることにしよう。

 公家の山科言継の日記『言継卿日記』などの当時の史料によると、信長の焼き討ちという所行が手厳しく非難されている。信長の蛮行は「仏法破滅」と書かれているように、大きな衝撃を各方面に与えたのだ。

 甲斐の戦国大名・武田信玄は、信長の比叡山焼き討ちの一報を耳にして、激しく非難した。信玄は信仰心が篤かったので、比叡山の復興に手を貸したほどだった。当時の人々は、信長の行為を決して認めていなかったのだ。

■現代の評価

 現代における信長の比叡山焼き討ちの評価も、実にさまざまである。比較的ポピュラーなのは、信長が革新的な人物だったという視点からの評価だ。

 たとえば、フロイスの『日本史』には、信長が神になろうとしたという記述がある。この一節を根拠にして、信長は無神論者(無宗教者)であるとさえいわれてきた。

 信長が比叡山を焼き討ちにしたのは、当時の宗教的な権威である比叡山を恐れず、その克服を目指したとさえ指摘された。それどころか、信長は自らの権力を見せつけるため、これまでも傍若無人な振る舞いをした比叡山を焼き討ちにしたとの考え方もある。

■当時の比叡山の状況

 上記の指摘のうち、信長が無神論者(無宗教者)だったというのは誤りで、禅宗や法華宗を信仰していたことが明らかである。信長が神になろうとしたというのも、『日本史』にしか書かれていないので疑問視されている。

 問題になるのは、当時の比叡山の状況だった。僧侶は信仰や修行を忘れ、肉食、飲酒、金儲け、女性との交わりに耽っていた。つまり、僧侶は宗教者としての本分を果たしていなかった。

 それだけではない。当時、信長は朝倉義景、浅井長政と対立していたが、あろうことか比叡山は信長に歯向かって、朝倉・浅井両氏に味方した。信長はそのことがどうしても許せなかったのだ。

 要するに、信長は比叡山が宗教者としての本分を果たさず、さらに敵対する朝倉・浅井両氏に味方したので、焼き討ちにしたにすぎない。理由は、たったそれだけである。

 逆に、信長を慕って援助を乞う寺社に対しては、所領の寄進や安堵を行った。類例を挙げればきりがないが、寺社が信長に歯向かうことがなければ、別に何ら問題はなかったのである。

■まとめ

 信長の人物像に関しては、「革新的」という一点で語られてきた。人々の「現代に信長のような政治家がいたら」という発言も、その一端を物語っていよう。

 しかし、信長は特別な革新者ではなく、当時の慣習などに縛られた存在だった。したがって、現在ではどちらかといえば、信長は保守的な人物だったとさえ指摘されている。その点には注意すべきだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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