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大河ドラマではあまり目立たなかった、浅井三姉妹の実像とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
北ノ庄城址 柴田公園 三姉妹像。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、まだ浅井三姉妹の姿が目立たない。今回は浅井三姉妹の来歴について、詳しく取り上げることにしよう。

 浅井長政は朝倉義景と同盟し、織田信長、徳川家康と戦っていたので、気の休まることがなかったに違いない。唯一、心に安らぎを感じたのは、妻・お市の方との生活だったと想像する。長政とお市の方は、3人の姉妹に恵まれたので、順番に紹介することにしよう。

 永禄10年(1567)、長女の茶々が誕生した。2人にとって、待望の第一子だった。成長した茶々は、豊臣秀吉の側室となり、やがて淀殿と呼ばれた。淀殿は秀吉の寵愛を受け、秀頼をもうけたが、それは波乱の人生のはじまりでもあった。

 永禄13年(1570)、次女の初が誕生した。成長した初は京極高次の妻となり、常高院と称されるようになった。三姉妹の中で、初は最初に結婚したのである。ところが、夫の高次は武将としての才覚に欠け、初は大いに苦労したことでも知られる。

 天正元年(1573)の浅井氏が滅亡した年、三女の江が誕生した。江は生涯を通して3度も結婚と再婚を繰り返すという、数奇な運命をたどることになった。最後の結婚相手は徳川秀忠(家康の子)で、ようやく幸せをつかんだといえよう。

 三姉妹は小谷城にあって、乳母のもとで養育されていたと考えられる。とても大切に育てられたことはいうまでもない。ただし、残念ながら、前近代の女性の例に漏れず、幼少期の三姉妹の動向をうかがい知る史料は乏しい。あくまで想像に過ぎない。

 また、母・お市の方が美しい女性として知られていたので、三姉妹も美しい容姿だったと想像される。どちらにしても、長政とお市の方にとって、三姉妹が愛すべき自慢の娘であったのはたしかだろう。

 しかし、戦国の世は非情であり、多くの女性は政略結婚の「手駒」とならざるを得なかった。先述したとおり、三姉妹は成長して結婚するが、自分の希望が通ったとは思えない。「どうする家康」でも三姉妹は注目されるだろうから、改めて追々取り上げることにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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