【光る君へ】一条天皇の即位後、子供もやりたい放題に昇進させた藤原兼家の権勢ぶり
大河ドラマ「光る君へ」では、一条天皇が即位したので、藤原兼家が摂政となり実権を掌握することになった。実は自分が摂政になっただけでなく、その子供も一気に昇進させたので、その状況を確認することにしよう。
寛和2年(986)に一条天皇が即位すると、右大臣の兼家は摂政に就任した。しかし、まだ上には太政大臣の藤原頼忠、左大臣の源雅信が位置していた。通常、摂関は太政大臣が就くのが慣例だったので、兼家は右大臣の職を辞した。
その後、兼家には「准三宮の詔」が下され、太皇太后などの三職に準じる扱いとされた。しかも、兼家には「一座の宣旨」が下され、三公(太政大臣、左大臣、右大臣)より摂政を上とすることになった。
以降、太政大臣は摂関と分離され、長老格の公家を処遇する名誉職的な位置付けになった。同時に、摂関と藤原氏の氏長者が一体化されたのである。こうして兼家の権力基盤は盤石なものになった。しかも、自分の子供を優遇し、異例なまでの昇進をさせたのである。
◎藤原道隆
長男の道隆は、それまで非参議の従三位・右近衛中将だったが、参議を経ることなく権中納言となり、皇太后大夫を兼務した。さらに、兼家が右大臣を辞したので、5人をごぼう抜きして権大納言に昇進し、従二位、正二位と猛烈なスピードで昇進したのである。
◎藤原道兼
四男の道兼は蔵人で左少弁だったが、まず蔵人頭になった。その後、道隆の代わりに右近衛中将になり、参議になった。さらに、先輩の参議を7人ごぼう抜きして従三位・権中納言になると、続けて正三位になった。道兼は花山天皇を退位させた功労者だったので、その功に報いたものであろう。
◎藤原道長
五男の道長は、従五位上・蔵人から出発し、正五位下→少納言→右近衛少将→従四位下と、あっという間に昇進した。翌年になると、従四位上→左京大夫と昇進を重ね、正四位下を経ることなく、一気に従三位まで上り、参議を経ずして権中納言に就任したのである。
◎まとめ
わずかな短期間で、兼家の子供が異例なまでのスピードで昇進したのは、摂政となり人事権を掌握したからだった。それゆえ、除目が行われるたびに、兼家の子供は先任者をごぼう抜きして、昇進することができたのである。