【戦国こぼれ話】戦国時代の城郭で重要だったのは、水の確保、トイレの設営と糞尿の処理だった
居酒屋で鍋に大量の虫が混入する事件があった。実は戦国時代の城郭は清潔で、衛生面の配慮のほか、水の確保を重要視していた。以下、その実態を探ることにしよう。
■重要だった「水の手」の確保
戦国時代の城郭にとって、兵糧ととともに「水の手」の確保が重要だった。水がなければ、人間は死んでしまうからだ。
とりわけ戦国時代は山城が主流であったため、山の湧き水を溜めておいたり、雨水を溜めて保存するなど、あらゆる方法によって水の確保に努めた。
山城の場合は、本丸部分に井戸を掘ることが困難であった。それゆえ一般的に、城は水源を確保するために川の近くに築かれた。
また、将兵は川へ水を汲みに行ったり、簡単な取水施設を作り釣瓶で水を汲み上げ、樋で水を引き込むなどしていた。
こうした水源を敵から守るため、「水の手曲輪」を築いたほどである。攻城戦が勃発すると、まず「水の手」をめぐって攻防が繰り広げられた。
平城などでは、井戸を掘り「水の手」を確保した。三木城(兵庫県三木市)の本丸跡には、「かんかん井戸」と称される井戸の跡がある。
井戸の深さは約25メートル、口径は約3.6メートルもある。井戸のなかに石を投げると「かんかん」と音がしたので、そう名付けられたという。
井戸の大きさもさまざまだった。大多喜城(千葉県大多喜町)の近くの大多喜高等学校のグラウンドの一隅には、城主の本多忠勝が掘らせたという井戸がある。大きさは周囲が17メートルで、深さは20メートルもある大井戸だった。
織田信長の居城だった岐阜城(岐阜市)の天守の手前を少し降りたところに、「金銘水」という軍用井戸がある。
これは自然に水が湧いている井戸ではなく、雨水を溜める貯水池のような井戸だったという。山城であっても、水を確保する努力がなされたのである。
■トイレの確保と糞尿の処理
城内では、トイレが重要であった。糞尿はニオイだけでなく、衛生上の問題から、病気を引き起こす原因となった。糞尿がどれくらいの量になったのかは不明である。
とても穴を掘ったくらいでは処理できず、頻繁に城外へ捨てる必要が生じた。城内には馬がいたので、決して人の糞尿だけではなかった。それが毎日なのだから、処理は大変だった。
天正10年(1582)、北条氏は足柄城(静岡県小山町と神奈川県南足柄市の境)の当番に対して、糞尿の処理を徹底することを命じた。
それができないなら、当番が1日や2日延びても構わないとまで述べている。北条氏の場合は、城の守備者が交代制だったので、糞尿の処理について徹底した指示がなされた。
天正9年(1581)6月、北条氏は浜居場城(神奈川県南足柄市)の守備兵に掟書を与え、人馬の糞尿は毎日城外へ捨て、清潔に保つことを命じた。
しかも、糞尿は城から一遠矢(約100メートル)以内に捨ててはならず、遠いところに捨てるように指示している。これは、かなり細かい指示であるので、相当な注意を払っていたのだ。
■まとめ
城をめぐる攻防では、石垣や堀が重要視されたのは事実だったが、それだけでは勝てなかった。兵糧はもちろんのこと、水の確保は重要だった。また、疫病を蔓延させないためにも、トイレや糞尿の処理に注意を払っていたのである。