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志半ばで惜しまれつつ亡くなった、戦国時代の名将3人

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
太田道灌像。(写真:イメージマート)

 今も昔も、志半ばで惜しまれつつ亡くなった人物は数多い。戦国時代にも名将の誉れが高い人物ながらも、志半ばで惜しまれつつ亡くなった人がいるので、そのうち3人を紹介することにしよう。

◎太田道灌(1432~1486)

 非業の死を遂げた名将として、江戸城を築いた太田道灌を取り上げることにしよう。

 康正元年(1455)、太田家の家督を継承した道灌は、その翌年から江戸城の築城に着手した。江戸城が完成したのは、長禄元年(1457)のことと伝わる。以降、江戸は中世都市とし、徳川家康に引き継がれたのである。

 長尾景春の乱では、上杉定正、上杉顕定を守りながら、景春追討のために各地を転戦した。一方、道灌は豊かな教養を持っており、江戸城に臨済宗僧の万里集九のほか、建長寺、円覚寺の僧を招き、隅田川の船上で詩歌の会を催したりした。

 そんな道灌が糟屋館で暗殺されたのは、文明18年(1486)のことである。

◎竹中重治(1544~1579)

 非業の死を遂げた名将として、軍略家として名高い竹中重治を取り上げることにしよう。

 重治は美濃斎藤氏に仕えていたが、永禄7年(1564)には稲葉山城を乗っ取り、主君の龍興を追放したことがある。永禄10年(1567)に織田信長が龍興を放逐すると、重治は信長の家臣となった。

 やがて、重治は羽柴(豊臣)秀吉の与力となり、中国計略に従事した。天正6年(1578)の有岡城攻略では、盟友の黒田官兵衛が荒木村重を説得しに行ったものの帰還しなかった。裏切ったと思った信長は、官兵衛の子・松寿(長政)を斬れと言ったが、重治が美濃に匿った逸話がある。

 天正7年(1579)、重治は三木合戦の最中、勝利を目前にして陣中で没したのである。

◎長宗我部信親(1565~1587)

 非業の死を遂げた名将として、将来を嘱望されつつ戦死した、長宗我部信親を取り上げることにしよう。

 『土佐物語』によると、信親は幼い頃から礼儀正しく、文武に優れており、父・元親は長宗我部家の後継者として、将来を大いに期待していたという。天正6年(1578)、元親が織田信長と交誼を結んだとき、信長の「信」を与えられ、信親と名乗った。

 天正14年(1586)、大友宗麟は島津義久が豊後に侵攻したので、豊臣秀吉に救援を要請した。秀吉の命を受けた元親は、信親や仙石秀久とともに豊後に出陣した。

 しかし、戸次川の戦いで信親は戦死。以降、元親は悲嘆に暮れ、立ち直れないほどだったという。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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