アマチュア球界から台湾プロ野球に挑戦した初めての日本人選手が田澤純一に送るエール
先日、プロ未経験者として「台湾プロ野球初の日本人選手」となった金子勝裕氏のプロ入りに至るまでのストーリーを紹介したが、今回はそのストーリーの後編として短いプロ生活とそれ以後の金子氏の人生について語ってゆく。
たった3ヶ月のプロ生活
そんなプロ野球生活も長くは続かなかった。開幕後3ヶ月目に入ろうとしていた6月、球団事務所から呼び出しがあった。ロッカールームから出ていこうとする金子にチームメイトから「お前、クビだよ」と告げられた。日本語だったのか、片言を覚え始めた中国語だったのか、英語だったのかは覚えていない。ただ、言わんとすることだけは理解した。事務所ではそのとおり、自由契約が通告された。
「すまねえな。アメリカから新しい助っ人を呼んでくることになったんだ」
その言葉を聞いて、初めて自分の立場を理解した。
「球団としては、外国人の僕は『外国人助っ人』だったんです。プロ経験もありませんでしたし、自分では育成的に獲ってもらったように思っていたんです。クビはないだろうって。開幕直後に1試合出番があった以外ずっとベンチだったんです。クビになる直前にスタメンで使ってもらったりしたんですが、後で考えれば、最終テストだったんでしょうね」
開幕から低迷するチームには何らかのテコ入れが必要になる。その時スケープゴートに「よそ者」が上がるのは世の常。金子は荷物をまとめて日本に帰ることになった。
ところが帰国も一筋縄ではいかなかった。預けていたパスポートを返してもらうと同時に、球団職員から入管事務所に立ち寄るよう言われた。あとで聞いた話では、外国人選手からは逃亡に備えてパスポートを取り上げていたらしい。
入管では、オーバーステイの罰金を徴収された。球団がやってくれているはずのビザ更新はなされていなかった。立て替えておいた日本との航空券代も球団は、一部しか払ってくれず、帰国した時、台湾で手にした給料はほとんどなくなっていた。
指導者の道を断念。サラリーマン生活へ
帰国した金子は、再び指導者の道を歩むことにした。前任校のコーチとして復帰し、甲子園を次の人生の目標に据えた。しかし、そこにもプロアマという新たな壁が立ちはだかった。高校のコーチに戻る際、台湾プロ野球の事務所と県高野連に台湾でのプロ経験者である自分が高校生を指導することの可否を尋ねたのだが、当時国外のプロリーグでのプレー経験者が日本の高校で指導を行うことなど想定もされておらず、結局あいまいな返答しか返ってこなかった。結局、球児たちに迷惑がかかってしまってはならないと金子は自身の判断で高校での指導から身を引くことにした。そして仙台に帰り、サラリーマンとしての人生を歩むことにした。台湾から帰ったら、そうするというのが、大卒後安定した職に就こうとしない金子の「わがまま」を許してくれた両親との約束でもあった。
時代はすでに「就職氷河期」に入っていたが、人手不足の地方都市ということで、すんなりと正社員の職が決まった。
入社試験の際、面接官は金子の履歴書にある「俊国ベアーズ入団」の文字に驚き、思わず「証明書あるの?」と声を上げたが、用意周到な金子は、持参していた写真と新聞、雑誌記事を見せた。写真は「プロ入り」を決定づけたオープン戦でのホームランシーンのものだった。それが決め手となったかどうかはわからないが、採用が決定した。
複雑な台湾に対する思い
あれから四半世紀以上が過ぎた。金子は同じ会社に勤め続け、今では管理職にまで上り詰めている。台湾にはあれから足を踏み入れたことはないと言う。元々高校野球の指導者になって学生時代かなえることのできなかった甲子園という夢を追い続けようと考えていた金子にとって、台湾行きは、ある意味その夢を断念せねばならなかった「悪夢」でもある。台湾には複雑な思いがあるのだろう。
「あの時のオーバーステイで、1年間入国禁止のペナルティを食らったんですよね。今は問題ありませんが。一度、社員旅行で台湾に行く機会もあったんですけど、その時はちょっと行けなかったですね」
その苦い思い出も時とともに美しいものに変わってゆく。50歳をそろそろ迎えようという今になって、青春の思い出の地に足を運びたいとも思うのだが、少年野球の指導で身動きが取れない。
「当時、俊国の監督だった前田さんとは、年に一度、年末に連絡をとらせていただいているんですが、機会があったら行きたいねって言っています。」
金子の手元には思い出の品としてユニフォームだけは残っている。本来は退団時に球団に返却すべきものだったのだが、複数枚あったうち、ホーム、ビジター1着ずつは破けてしまったと返さなかった。回収しに来た球団スタッフは「破けたなら仕方ない、それは持って帰っていいよ」と下手な言い訳を聞き入れてくれた。
それでも台湾球界と全く縁が切れたわけではない。どこで調べたか、金子のもとには時折、サインを入れてほしいと現役時代のベースボールカードが送られてくる。SNSの普及のおかげでかつてのチームメイトともつながった。
俊国ベアーズはその後球団の身売りにより、興農ブルズと名を変えた。その古巣が、2005年秋、台湾チャンピオンとしてこの年に始まったアジアシリーズ出場のため東京にやって来た。台湾球界入りへの道筋をつけてくれた作家の誘いで、金子は東京ドームを訪ねた。観客席からのネット越しというかたちではあったが、かつての同僚であった陳威成監督との再会を果たした。当時は決して高いレベルとは思わなかったが、東京ドームという器での国際シリーズという舞台のせいだろうか、名を変えた古巣はすっかり洗練されたチームに生まれ変わったように見えた。
それでも、台湾チームは常に日本の後塵を拝している。日本人でありながらどこかで台湾を応援する気持ちで試合を見る金子にとって、日台戦はもどかしさがいつも残る。
「台湾野球の良さはパワフルさなんですけどね。それが魅力ではあるんですけど、日本のきめ細やかさにいつも負けてしまう。すべてにおいて精度が低い気がします。僕がプレーしていた当時はとくにそうでした。今はどうかわかりませんけど」
野球の方は、サラリーマンになってからも、硬式のクラブチームと軟式の草野球ともでプレーし続けていたという。しかし、それも2011年の震災のあと、辞めてしまった。
「でも、震災のせいで止めたわけではないですよ」と金子は笑う。子供が野球をしはじめ、その指導を頼まれたのだ。監督の依頼を受け、小学生チームを3年率いた後、ボーイズリーグで中学生のコーチをするようになった。そのうち、小学生のチームからも復帰要請を受け、2年前から指導者として二足の草鞋を履いている。台湾にはもうしばらく行けそうにない。
「後輩」田澤純一に送るエール
金子が東シナ海を渡って以降、多くの日本人選手が台湾プロ野球に挑戦した。台湾野球もレベルが上がり、金子のような日本でのプロ経験のない者はほとんどいなくなった。彼らの中には、マック鈴木や川崎宗則などの元メジャーリーガーも含まれる。そして今シーズンは、ボストン・レッドソックスのセットアッパーとして一時代を築いた田澤純一投手が味全ドラゴンズのクローザーとして活躍している。彼の活躍に話を向けると、金子はちょくちょくネットでマウンド姿を見ていると返してきた。
「ああ頑張ってるなって。やっぱり日本の選手が台湾に行ったり、台湾人が日本に来たりすると気にはなりますね。」
先人として台湾で奮闘している田澤にアドバイスはあるかという問いにはこう答えてくれた。
「まずは、食事とかコンディショニングが難しいよということですね。食べ物に関しては好き嫌いがありますから。僕もきつかったですね。寮や球場では食事は用意してくれるんですけど、向こうの味付けはなかなか口に合わなくて…。外食するときも、屋台では出てくるまで何を食べさせられるかわかりませんから、マクドナルドと吉野家の牛丼を探して食べてました。だから食べるものは十分に用意しておくほうがいいと思います。あとはメンタル的な面ですね。今はネットで日本と連絡をとれるから大丈夫でしょうけど。
最後に言いたいことは、自分を見失わないで、ということですかね。メジャーも経験した彼に言うことではないでしょうけど、自分が勘違いしたもんで。僕みたいな選手でも日本からNHKが取材に来てくれたりしたんです。そういうことがあると、プロ野球選手になったんだなって舞い上がってしまいました。環境は日本やアメリカと全然違うと思いますが、彼には自分自身に後悔がないようにもてる力を出し切ってほしいですね」